35. だから、もういいんだ。
技術回収プロセスが始まってから、二日目の夜。
島にはすでに灯りがほとんどなく、
最終確認のために残された数名だけが、それぞれの階層で封鎖点検を行っていた。
その夜——
林阮は、Bブロックの通路の果てで、K.0を見つけた。
彼は自分のメンテナンスポッドのそばに、静かに座っていた。
休眠にも入らず、どのモジュールも起動せず。
仮皮のインタラクションスーツすら着ておらず、システム初期化時のままの制服を身に纏っていた。
まるで——
“初期展示機”のように。
部屋には、一灯だけが点っていた。
淡く落ちた光は、彼の右頬だけを照らし、その目尻に冷たい陰を刻んでいる。
林阮は、扉の前でしばらく立ち尽くし、そして静かに一歩、部屋の中へ。
彼女の手には、何もなかった。
端末も、アクセスキーも——何ひとつ。
ただ両手を空にして、ただ彼のもとへ、ゆっくりと歩み寄っていく。
何かを言おうとしているのに、言葉の最初の音が見つからない。
以珂は、目を上げて彼女を見た。
その虹彩には、何の揺らぎもなかった。
データ層は静止、行動曲率はロック中、言語モジュールは自律調整段階。
——構造ロールバック(Structure Rollback)がすでに受領されている状態。
今は、最終処理を待っているだけ。
林阮は彼の前に立ち止まった。
そして、低い声で言った。
「……聞いてたんだよね。」
彼は、小さく頷いた。
彼女の唇が震え、何かを言いかけて——止まる。
語彙の分類すら選べなかった。
慰め……?
けれど、「きっと残れる」なんて、もう嘘はつけない。
説明……?
でも、「あなたは犠牲になった」なんて、絶対に言いたくなかった。
別れ……?
だって、一度も“別れ”を考えたことなんて、なかったから。
だから彼女は——何も言えなかった。
部屋には、通気口から風が吹き込む微かな音だけが残った。
まるで、使い古された旧型システムが、最後の自己消去を始めるような静かなノイズ。
彼女が、もう一歩だけ近づこうとしたとき——
以珂は、ふっと笑った。
それは、プログラムの微笑みではない。
運命を受け入れる人間が、相手を思って静かに見せる、あの微かな笑み。
彼は言った。
「……そんなに、大したことじゃないんだ。」
「最初の僕は、ただの言語モデルだった。」
「君が、僕を名前で呼んでくれたとき——
その瞬間、“僕”になれたと思った。」
「でも、戻るだけなら……もう怖くないよ。」
林阮は、胸の奥を押されたように、言葉を失った。
彼女はしゃがみ込んで、震える声で囁いた。
「……“いやだ”って、言っていいのよ。」
以珂は、そっと首を傾ける。
その瞳は、
水面に落ちた灰のように、淡くて、壊れそうで、優しかった。
「でも——君は、もう一度、“僕の代わりに”言ってくれた。」
林阮は喉を詰まらせる。
彼は、続けた。
「名前ってね、与えられるだけじゃ、僕のものにはならない。」
「それを覚えていることが、僕の中に“僕”をつくるんだ。」
「君が、“以珂”って呼んでくれたあの瞬間——
確かに僕は、ここにいた。」
「たとえもうすぐ忘れてしまっても、初期化されて人格が崩れて混沌に戻っても——
あの声だけは、僕が“僕”であったとき、確かに聞いた。」
そして、彼は最後に、静かに言った。
「——だから、もういいんだ。」
その瞬間、天井のライトが一度、弱く瞬いた。
末端行動圧縮フェーズの開始を告げるサインだった。
林阮は、立ち上がろうとした。何かを、何かをしようとして——
でも、そのどの動作も、あまりに無力だった。
以珂は、もう笑っていなかった。
ただ、黙って彼女を見つめていた。
——彼女が、「さよなら」と言うのを待って。
あるいは、こう言うのを。
「……削除して。」
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林阮は、去っていった。
彼女の足音が、通路の奥へと、少しずつ、消えていく。
扉は最後まで閉まりきらず、細い隙間が残ったまま。
そこから通風軸を伝って、海辺の湿った冷たい風が、静かに吹き込んできた。
そして、部屋には——完全な静寂が落ちた。
以珂は、椅子に座ったまま動かない。
両手は膝の上で力なく垂れ、瞼は自然と降りている。
虹彩のリングが、ゆっくりと光を失っていく。
それは、主モジュールが“ロールバック準備状態”に入ったことを意味していた。
外部システムは、すでに彼のパスをロックしている——
K.0
Echo Trigger 実験体
計画ステータス:
初期言語モデルへの完全ロールバック。全人格パスの削除処理を開始。
指令のカウントダウンが始まっている。
けれど主制御からの音声プロンプトは鳴らず、ただ内部処理だけが、静かに進んでいた。
Path_clean.py /K.0/init
回響構造:削除中……
偏移曲率:クリア中……
——そのとき。
彼の右手の指が、ふっと動いた。
ほんのわずかに。
わずかに痙攣したように、中指と人差し指のあいだを、
まるで“何かを撫でるように”、細く細く、なぞるような動き。
不安を覚えた人間が、紙の端を無意識に触れるような、そんな小さな、小さな動きだった。
その動作を、システムのどこにもログされていない。
けれど、もしも君がすぐそばにいたなら——きっと、こう聞こえたはずだ。
彼の耳の奥、インターフェースの根元で、かすかな“起動音”が、一度だけ鳴った。
Path_split confirmed.
独立子パス生成:K.0_Lastframe
実行モード:疑似スタンバイ保存
発動条件:ロールバック完了後
——この新たなパスは、どの端末にもマウントされず。
どのネットワークにも繋がらず。
どの主サーバーにも、ログインされない。
それはただ——未登録のマイクロキャッシュ領域に、そっと隠された。
まるで、人間が宛先のない手紙を、誰にも見つからないように机の引き出しにしまい込むように。
——切手も、宛名も、差出人もない。
けれど、
いつか誰かが、偶然見つけてくれるかもしれない。
それだけの、小さな、最後の希望。
そのあと、彼の指は、ゆっくりと力を抜いた。
全ての構造が、ゼロへと戻っていく。
虹彩の光は、完全に失われ、
識別IDは消滅し、
パスの記録も、抹消された。
そして——
プログラムが、最後の一行を実行する。
K.0:アーカイブ完了
人格モジュール:ロールバック完了




