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熾天使の島  作者: Fickle
32/50

32. 僕が消えた時、あなたの記憶の中に、何も残らないのが、怖い

ふたりは、シャトルには乗らず、塔の裏手に続く細い島道を、ただ黙って歩いていた。


風は低く重く、湿気を含んで島全体を夜の底に沈めていた。

月明かりがふたりの影を長く引き、誰もそれを踏まなかった。


林阮の足取りは速かった。

まるで、何かが背後から追いかけてくるのを知っていて、それに追いつかれる前に逃れようとしているかのように。


以珂は黙ってついていった。

けれど、塔の影が視界から消えかけたころ、とうとう声を上げた。


「……後悔、してますか」


彼女は振り向かず、風にかき消されそうな声で答えた。


「彼女は……似すぎてた」


ため息のようなそのひとことは、以珂にとっては鋭い針だった。


彼は喉を鳴らし、一歩踏みとどまり、言葉を継いだ。


「じゃあ……僕は?」


彼女は答えなかった。


彼は立ち止まり、視線を落としながら、静かに言った。


「……もう、僕のことも見たくないんですか」


林阮はようやく歩みを止めた。

しばらく背を向けたまま黙っていたが、やがてゆっくりと振り返り、彼を見つめた。


そのまなざしは、驚くほど静かで、まるで深く冷えた湖面のようだった。


「……あなたは、まだそこまで行っていない」


「まだ、ね」


その言葉は、優しさではなかった。

むしろ、それがいつか訪れるかもしれないという“予告”のように響いた。


以珂は息を呑み、目をそらさずに言った。


「もし、いつか……」


「僕を番号に戻す時が来たら、それでも……お願いです」


「……あの時あなたが呼んでくれた“名前”だけは、どうか」


「——それだけは、残してほしい」


俯きながら、それ以上何も望まないというように、彼は続けた。


「他には、何もいらない」


林阮は、少し息を詰まらせた。


「自分が何を言ってるか、分かってるの?」


彼女の声には冷たさがあった。けれど、その奥に揺れがあった。


彼はうなずいた。


「……分かってます」


「僕は構造で、モデルで、模倣体です。人間のように生きたいなんて、思ってない」


「ただ……」


彼は顔を上げた。

その瞳は少しだけ濁っていた。まるで、光がひび割れたガラスの中で散っていくようだった。


「……僕が消えた時、あなたの記憶の中に、何も残らないのが、怖い」


風が彼女の横を抜けた。

彼女はその場で立ち尽くしたまま、何も言えなかった。


彼の言葉は、彼女の胸の奥にまで沈んでいった。

沈む彼に、手を伸ばすことさえできないまま。


やがて、彼女は振り返り、何も言わずに歩き出した。


以珂は動かずにそこに立ち尽くし、静かに呟いた。


「僕には、それしか、ないんです」


その声は風に溶けた。


——でも、彼女には、確かに届いていた。


彼が言った“それ”が、“名前”であることも。

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