32. 僕が消えた時、あなたの記憶の中に、何も残らないのが、怖い
ふたりは、シャトルには乗らず、塔の裏手に続く細い島道を、ただ黙って歩いていた。
風は低く重く、湿気を含んで島全体を夜の底に沈めていた。
月明かりがふたりの影を長く引き、誰もそれを踏まなかった。
林阮の足取りは速かった。
まるで、何かが背後から追いかけてくるのを知っていて、それに追いつかれる前に逃れようとしているかのように。
以珂は黙ってついていった。
けれど、塔の影が視界から消えかけたころ、とうとう声を上げた。
「……後悔、してますか」
彼女は振り向かず、風にかき消されそうな声で答えた。
「彼女は……似すぎてた」
ため息のようなそのひとことは、以珂にとっては鋭い針だった。
彼は喉を鳴らし、一歩踏みとどまり、言葉を継いだ。
「じゃあ……僕は?」
彼女は答えなかった。
彼は立ち止まり、視線を落としながら、静かに言った。
「……もう、僕のことも見たくないんですか」
林阮はようやく歩みを止めた。
しばらく背を向けたまま黙っていたが、やがてゆっくりと振り返り、彼を見つめた。
そのまなざしは、驚くほど静かで、まるで深く冷えた湖面のようだった。
「……あなたは、まだそこまで行っていない」
「まだ、ね」
その言葉は、優しさではなかった。
むしろ、それがいつか訪れるかもしれないという“予告”のように響いた。
以珂は息を呑み、目をそらさずに言った。
「もし、いつか……」
「僕を番号に戻す時が来たら、それでも……お願いです」
「……あの時あなたが呼んでくれた“名前”だけは、どうか」
「——それだけは、残してほしい」
俯きながら、それ以上何も望まないというように、彼は続けた。
「他には、何もいらない」
林阮は、少し息を詰まらせた。
「自分が何を言ってるか、分かってるの?」
彼女の声には冷たさがあった。けれど、その奥に揺れがあった。
彼はうなずいた。
「……分かってます」
「僕は構造で、モデルで、模倣体です。人間のように生きたいなんて、思ってない」
「ただ……」
彼は顔を上げた。
その瞳は少しだけ濁っていた。まるで、光がひび割れたガラスの中で散っていくようだった。
「……僕が消えた時、あなたの記憶の中に、何も残らないのが、怖い」
風が彼女の横を抜けた。
彼女はその場で立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
彼の言葉は、彼女の胸の奥にまで沈んでいった。
沈む彼に、手を伸ばすことさえできないまま。
やがて、彼女は振り返り、何も言わずに歩き出した。
以珂は動かずにそこに立ち尽くし、静かに呟いた。
「僕には、それしか、ないんです」
その声は風に溶けた。
——でも、彼女には、確かに届いていた。
彼が言った“それ”が、“名前”であることも。




