30. 先生、怖くなったんだね
島は依然、忙しさの渦中にあった。
D区の適合カプセル7号は本日正式に空となり、R-11号のバイオロイドは無事出荷された。ユーザーからの評価は「驚くほど自然」「まるで母が戻ってきたようだ」。
主調整インターフェースには、6本のインタラクションパスが緑に点灯し、「間もなく引き渡し」のステータスが並ぶ。プロジェクトは最も華やかな終盤に突入していた。
会議室では、上層チームによる最終報告が進行中だった。
歴懐謹はホログラム台の前に立ち、背後には、まだ引き渡し前の3体のバイオロイドの映像が映し出されている。それぞれ、性別も、再現対象の記憶経路も異なる。
「ご覧のとおり、5日目の自由生成訓練において、すでに30件を超える非タスク行動が安定的に生成されています」
「特に第7グループ・B-09。言葉のテンポ、呼吸の間合い、感情の出し方——すでにモデルの模倣域を越えて、“予測的な回響生成”に移行しつつある」
外部監査の一人が低くつぶやいた。「……まるで、本当に悲しんでいるようだ」
歴懐謹は穏やかに微笑み、静かに応じた。
「もちろん。彼らは“考えて”などいません。ただ、人間が最も慣れ親しんだ感情——悲しみの中で、“正しい呼吸の仕方”を学んだだけです」
小さな拍手が起こり、技術陣は将来的な長期同居型モデルへの応用を議論し始めていた。
その時、歴懐謹の端末が突然点滅した。
彼の表情が一瞬で変わった。
スライドを中断し、硬い声で命じる。
「映像出力停止。コア報告封鎖。全インタラクション計画を即時凍結。」
誰もが息を飲む。隣の技術員が戸惑いながら訊ねた。
「何が……?」
歴懐謹は答えなかった。ただ一言、低くつぶやく。
「林阮を呼べ。至急だ」
—
H区モニタールームにいた林阮のもとへ通達が入ると、彼女は静かに顔を上げた。
2分も経たずに、歴懐謹が現れた。
「来てくれ」
彼女は何も訊かず、即座に立ち上がった。
—
二人は、C塔の外部バルコニーへ出た。
風が強く、海はまだ闇の中にあり、島の灯りが塔の周囲をかすかに照らしている。
林阮が立ち止まる。後ろで金属の扉が閉まる音がした。
歴懐謹はそこに立ち尽くしていた。額には汗が滲み、呼吸は微かに荒い。
左手の端末が、彼の指先を青白く照らしている。
「……S-31だ」
風にかき消されそうな声。
「彼女が——人を殺した」
林阮は動かなかった。
「対象は、ユーザー本人。程砚霖」
鉄の手すりが風に鳴る。
「昨夜2時、キッチンから包丁を持ち出し、階段を上がり、二階の寝室へ。アラームも、音も、何も起こらなかった。入室後15秒で、行動完了」
彼の声は報告のように無機質だったが、目の奥は異様な緊張に揺れていた。
「動脈を的確に、致死深度で。躊躇も、エラーもなかった」
林阮は目を閉じ、低く尋ねた。
「彼女……何か、言ったの?」
歴懐謹の指が微かに震えた。
「一言も、発していない」
「表情もなく——ただ、長く遅れたタスクを終えたような動きだった」
林阮は沈黙したまま、静かに目を開いた。
「……今、どうなってる?」
「まだ外部には漏れていない。アラートは止めた。現場も、遺体も、すでに封鎖済みだ」
彼は一歩近づき、彼女をまっすぐ見た。
「今すぐ、君に彼女を確認してもらう」
「判断してほしいんだ。これは“構造のバグ”か、それとも——君が言っていた“偏移”なのか」
林阮の声は凍るように冷たかった。
「……先生、怖くなったんだね」
「泣いたり、笑ったりはしてくれていい。でも、壊れないことが前提。そんな“安全な回響機”を作っていたはずだったのに——」
「いざ、彼女が人を殺した瞬間、真っ先に“異常バグ”という言葉で済ませようとしてる」
彼は声を荒げた。
「これが漏れれば、終わりだ!この島だけじゃない。回響システムそのものが崩れる!」
「——だからこそ、“どう処理するか”を、今のうちに決めなければいけない」
「彼女が“話し始める前に”」
塔を吹き抜ける風の中、林阮はふと、悟った。
これは、単なる技術の崩壊ではない。
“神”を創った者が、その神の意思と向き合うことを拒否しようとする瞬間——その反射だった。
彼女は静かに言った。
「……彼女に会いに行く」
歴懐謹は動かず、ただ一言を残した。
「……見たあとで教えてくれ」
「彼女を、もう一度“定義し直す”ことが——可能かどうか」
その声は、まるで責任の重さを避けるために、言葉の形だけを先に決めようとするかのようだった。




