29. ナイフがゆっくりと持ち上げられる
夜はもう深く、町の灯りも遠く霞んでいた。
西側の林帯を越えた先に、古びた一軒家がぽつんと立っている。湿気の多い空気に外壁はじっとりと濡れ、古い木の梁が風に揺れて、時おりギシ、とか細く鳴った。部屋の中にも、長年動かされていない空気の匂いが漂っていた。
二階の一室、明かりは灯っていない。
廊下の突き当たりにあるドアが、少しだけ開いている。非常灯の黄色い光がわずかに差し込み、床板に歪んだ影を落としていた。
部屋の中では、男がベッドに横たわり、穏やかな寝息を立てていた。顔は窓の方を向いていて、背をドアに向けていた。
——そのとき、静かな足音が廊下を進んできた。
かすかに床をすべるような音だった。かかとを使わず、足裏全体を滑らせるような動き。体重のかけ方までも計算されていて、一歩一歩、空気を押しのけるような気配だけが伝わってくる。
ドアが、音もなく、ゆっくりと押し開かれた。
ギィ、といった音はない。だが、ほんの少し空気が動き、部屋の温度が0.4度下がった。
淡い光が差し込み、その中に、女の横顔が浮かび上がった。
彼女はじっと立ち尽くしていた。頭を少し傾けて、光が彼を起こさないか確かめるようにも、何かを待っているようにも見えた。
その瞳に、感情はなかった。ただ、眠っている人がふいに目を開けたような、焦点の合わない虚ろさがあった。
女は、静かに部屋に入る。
ラグのない床がわずかにきしむ。ベッドの男が寝返りを打ち、布団の外に片腕を出した。
女は一瞬止まり、それからまた歩き出した。
肩の揺れもなく、膝もぶれず、足首の回転も滑らか。恐怖や躊躇いなど一切感じさせない。訓練された動きではない。「ためらう」という命令自体が、彼女には存在しないのだ。
ベッドの脇に立ち、彼を見下ろす。
男の顔には浅い呼吸のリズムが見え、唇は少し緩み、指先はシーツの端を握っていた。まるで夢の中で、何かを手放せずにいるかのように。
女は手を上げた。
その手には、細身のキッチンナイフが握られていた。刃先は鋭く、窓から差し込む光を薄く反射している。
だが、すぐには動かない。
彼女はただ、彼をじっと見つめていた。長い間。まるで、動く前に最後の確認をしているかのように。
やがて手首が回され、ナイフがゆっくりと持ち上げられる。その動きはロボットアームのように機械的でありながら、どこかで「迷い」が混じっている。
——どこから刺せば、痛みが少ないか。そんな記憶をなぞるように。
肘の角度が二度、小さく修正された。
空気が止まる。
時計の秒針も、カーテン越しの風も、家全体の音がぴたりと静まる。
女は、動かない。
刃先は空中でわずかに揺れ、まるで落ちそうで落ちない。何か見えない命令が、それを抑えていた。
男は眠っていた。
目を覚ますこともなく、夢を見ることもなく、何も知らぬまま。
女は、そこで止まり続けていた。
——その動きを、システムはこう記録した。
【行動ポイント異常:未定義の目的意図を検出】
【経路タグ:なし 活性曲率:非ループ構造】
【現在の状態:次のトリガーを待機中】




