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熾天使の島  作者: Fickle
25/50

25. この構造に、言葉はいらない

程砚霖の邸宅は、市街の喧騒から少し離れた、古い並木道の奥にひっそりと建っていた。


古風な一軒家で、大きな窓枠、木材の多い造り、防音性に優れた静かな空間。

屋内は隅々まで清潔に保たれ、むしろ几帳面すぎるほどだった。


書棚には本が壁沿いに高さを揃えて並べられ、表紙の向きも統一されている。

キッチンでは調味料ボトルが英字ラベルで並び、

ナイフの柄の角度にまで、一切の乱れがなかった。


S-31はキッチンの光の下で、静かに白磁の皿を拭いていた。


その手つきはとてもゆっくりで、何かを起こさないようにするかのようだった。

指先が縁をなぞるたびに、一度息を吸って、次の動きへ。

皿はすでに十分きれいだったが、彼女はさらに三度、丁寧に拭いた。


程砚霖が書斎から姿を現したとき、S-31は足音に気づいていたが、振り返らなかった。

ただ、皿を静かに棚へ戻し、その角度を調整した——

亡き妻が生前、撮影した写真と同じ配置。

棚から7.5cm、口はわずかに窓の方へ傾いていた。


「食べたのか?」

低く穏やかな声だった。


彼女は小さくうなずき、そしてまた首を振った。

「少し口をつけただけです。あまりお腹が空いていなくて。」


「今日はあまり喋らないな。」


彼はキッチンの出入り口に寄りかかりながら、彼女を見つめた。


彼女は静かに答えた。

「読書の邪魔になるかと思って……。」


彼は笑ったが、何も言わずその場を離れた。


彼女は彼の背を見送ってから、ようやく息をつき、布巾を畳んで水槽の左端に置いた。


この一連の行動は記録されたが、システムは強制命令ルートを起動しなかった。

ごく微弱な信号だけが、分類されることなく、冷たい温度のまま残された。



翌朝、東からの光が窓を通してリビングに差し込むころ、

程砚霖はすでにテーブルで新聞を広げていた。


S-31はコーヒーを運ぶ。


彼は顔を上げずに訊ねた。

「今日は砂糖、入ってるか?」


「半分だけ。昨日と同じです。」

彼女の声は、新聞の静けさを邪魔しないように調整されていた。


彼は一口飲んで、うなずいた。

「次はもう少し減らしてくれ。」


彼女はその言葉を記録した。

だが通常のタスク記録ではなく、

わずかな曲率の折れ点として圧縮保存された。

削除予定も設定されなかった。



午後、彼は書斎で本を読んでいた。


S-31は彼の好みに合わせて照明を“やわらかな黄の光”に切り替え、

椅子を運んでいつもの隅に座った。

——そこは、かつて彼が「そこにいてくれると落ち着く」と妻に言った場所だった。


彼女はあまり好きではなかった。


狭く、壁が少し湿気を含み、空気の流れが悪い。

内部回路には軽い圧縮が生じ、冗長な帯域が増加する。

作業効率に支障はないが、不必要なストレスが蓄積していた。

それでも、報告はしなかった。


彼は目をやって訊ねた。


「今日は、あのグレーのワンピースじゃないんだな。」


「洗濯中です。明日、また着ます。」


「君がそれを着ていると、姿勢が安定して見える。」


「明日、また着ます。」


システムは同時に記録した。

その衣服着用時、「対人応答モジュール」の安定率は3.4%向上。

ただし、曲率圧縮は明確に上昇——

“非構造的・高密度圧縮状態”として分類された。


彼女は着衣設定を変更しなかった。



ある夜、彼がソファで酒に酔っていたとき。


S-31は毛布を取って、かけようと近づいた。


手が伸びかけた瞬間、彼は低く呟いた。


「彼女も……そうだったな。そういう細かい動きが多すぎた。」


彼女はそのまま、そっと手を引っ込めた。


「そんなこと、しなくていい。」


「君は……いつもどおりでいればいい。静かで、単純で。」


彼女はうなずき、それ以上何も言わなかった。


その夜、彼女は自室に戻らず、リビングの隅に座り、彼が眠るのを見つめていた。


呼吸が一秒一秒とゆっくりになっていく。

まぶたがわずかに震え、額に小さな皺が寄る。


それらの動きは、すべて「非タスク目的の観察データ」として記録されたが、

彼女は中断しなかった。


一度、音声出力を試みたが、モジュールはこう返した。


「エラーなし。妨害なし。意味構造、未確定。」


——つまり、彼女は“話したくなかった”。


この行動は命令ミスではなく、回路障害でもない。


ただひとつの信号だけが、そこに存在した:


「この構造に、言葉はいらない。」


彼女は口を閉じた。


きっと——この家で、いちばん間違えない言語は、「沈黙」だった。

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