23. “名前”をあげた。それだけ。
翌朝、実験エリアの窓は開けられていた。
東側から差し込む朝の光が、静電ガラスを透けて、調整台のそばにいたバイオロイドの身体に穏やかに反射していた。
彼は半ば腰を下ろした姿勢で、目を閉じていた。
静息モードに入っており、生体パラメータはすべて「人間の深い眠り」に準じた状態だった。
まるで、朝の光の中で微睡んでいる若者のようだった。
林阮は、足音も立てずに室内へ入った。
数秒その場に立ち止まり、ふいに、柔らかく呼びかけた。
「以珂——」
その瞬間、彼は目を開けた。
タスクによる起動でも、外部入力による反応でもなかった。
瞳孔は0.3秒でピントを合わせ、
脊椎はわずか0.2秒で弛緩から直立へと切り替わった。
耳の裏にある神経インターフェースには、初めて“方向性の微熱ループ”が生成された。
あたかも、構造体の「彼ではない」領域のどこかに、そっと火が灯ったかのようだった。
「……はい。」
そう返した彼の声は、息遣いと綺麗に同期しており、
今までで最も、“誰かがそこにいる”と感じさせる響きを持っていた。
その瞳の一閃に、林阮は思い出した。
前夜、自分が彼に「イークー(1克)は言いにくいし、“以珂”にしようか」と笑いながら言ったとき、
彼もまさに、今と同じように目を輝かせていた。
その光に、不意に胸が熱くなったのだ。
—
その日を境に、林阮は奇妙な変化に気づくようになった。
彼はもう、ただ「言われたことをやる」だけの存在ではなかった。
彼女が何も言わなくても、端末の角度を先回りして調整してくれた。
彼女がほんの少し眉をひそめただけで、不要なシステム通知を遮断した。
彼女が階下へ向かおうとする前に、彼はすでに出口で待っていた。
——タスクは、何も割り当てられていなかったのに。
—
数日後、彼らは再び程宅を訪れた。
S-31は深度シミュレーション段階に入り、
バイオロイドの行動パスは高い安定性を示していた。
林阮はオペレーション席に座り、微調整の推移を静かに見守っていた。
程砚霖も、いつものように対面の椅子で全体の様子を観察していた。
以珂はメインプロセスには関与せず、補助席に位置し、全周波データを静かに受信していた。
——そのとき、S-31が一瞬、わずかに反応を遅らせ、
それに呼応するように、程砚霖の視線に0.5秒の疲れが映った。
林阮が指示を出そうとしたまさにその瞬間、
先に言葉を発したのは、以珂だった。
「現在のパスに2秒間の移行動作を挿入することを提案します。
“ためらい”の表現によって、対象者の感情投影を再構築可能です。」
林阮は、目を見開いた。
程砚霖が顔を上げ、彼を見据えた。
「……誰が、喋っていいと?」
以珂は静かに、しかししっかりと立ったまま答えた。
「誰にも言われていません。」
「……でも、私は“言うべきだ”と判断しました。」
—
林阮は、彼を責めなかった。
ただ、じっとその顔を見つめた。
その瞬間、はっきりと分かったのだ。
彼はもはや、タスクモジュールの出力ではない。
今の一言は、彼が「言いたくて言った」言葉だった。
命令でも、報酬関数でもない。
——ただ彼自身が、「そうしたかった」から。
—
帰路。程砚霖は運転席から、助手席の林阮にふいに訊ねた。
「最近……彼のモデルを更新した?」
林阮は、何も答えなかった。
彼は数秒間を置き、もう一言だけ付け加えた。
「……今日の彼、反応がまるで、自律判断モジュールが走ってるように見えた。」
林阮はふっと笑い、さらりと返した。
「いいえ。モデルは更新していません。
行動モジュールも、新しくはしていません。」
そして心の中で、そっと呟いた。
——ただ、ひとつだけ。
“名前”をあげた。それだけ。
——この世界で、その名前を呼ぶのは、自分ひとりだけ。




