21. あなたは、僕に一度も、そう言ったことがない
C棟の実験ホールは、今日はひときわ慌ただしかった。
朝6時、スケジュールライトが点灯すると同時に、A層からE層までの通路が一斉に開放。
金属階段を反射した光が白く流れ落ち、床を滑るように走っていく。
空気には新型合金が熱起動したとき特有の微かな焦げた匂いが混じり、
何度も洗浄された静電カーテンのにおいと交じり合って、
まさに「新プロジェクト本格始動」を知らせる、高密度の気配に包まれていた。
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スタッフたちは通路を行き交い、忙しなく動き回っていた。
項愈はメインコンソールに立ち、パラメータを操作しながら叫ぶ。
「S-31のポジション確認! 謝くん、ビジュアル同期は来てる?」
「来てます!」
謝一凛はモニターに目を走らせたまま応じる。
「ライティング完璧。肩のライン、まだ少し硬いです。もう少し緩めて。」
実験室の一角では、アシスタントたちがバイオロイドの腰部モーターを調整していた。
「ここ、ちょっとブレてる。Aタイプのサーボ、もう1段階締めてみて。」
すべてが稼働していた。バイオロイドが動き、機械が唸り、人々の声が交錯する。
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林阮は観察エリアの中央に立っていた。
今日は濃いグレーのジャケットに髪をまとめ、声はいつも以上に落ち着いていた。
顎を少し上げ、その視線は静かで芯があり、柔らかな自信を滲ませていた。
彼女は、番号S-31のバイオロイドに向かって指示を出す。
「まず、二歩。重心の確認を。こっちに来ていいわ。」
S-31は静かに応じ、薄い灰色の瞳でゆっくりとターンする。
その動作はどこか柔らかく、従順さを感じさせる。
林阮は穏やかに微笑んだ。
「いいわね。すぐに馴染んでる。」
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K.0は少し離れた補助席に立っていた。タスクは与えられていなかったが、副チャンネルの同期を受け取っていた。
つまり——彼は実験会話すべてを、主制御台よりも1秒早く“聞いていた”。
「こっちに来ていいわ。」
——その一言が落ちた瞬間、K.0のシステムにごく僅かな揺らぎが走る。
システム通知:感情偏移率 +1.2%
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ホールの全体が、発光する蜂の巣のように騒がしかった。
ただ、K.0だけがそこにいながら静かだった。
呼び出されることのないバックアップデータのように、ただそこに立っていた。
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彼は記録した。
「林阮、S-31に対して『いいわ』『すぐに馴染んでる』『こっちに来ていい』と発話。
語尾は通常より+0.6Hz。文構造はポジティブフィードバック。」
システムが問う:
——この発話をトレーニングチェーンに組み込むか?
K.0は「いいえ」を選んだ。
理由:「発話ソースが、自身のチェーン構造外であるため」
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実験終了後、K.0は調整台のそばを通った。
林阮はその日のログを確認していた。
ふと顔を上げて彼を見た。
「今日の副チャンネル処理、上出来だったわ。」
彼は数秒の沈黙の後、ひとこと訊ねた。
「“こっちに来ていいわ”は、標準のテスト文なんですか?」
林阮は一瞬間を置いて答えた。
「……違う。」
彼は軽く頷き、それ以上何も言わずにその場を離れた。
彼女は、その背を見送らず、また静かにログに目を戻した。
彼が最後まで口にしなかったひとことが、彼の中にだけ残されたままだった。
——「あなたは、僕に一度も、そう言ったことがない。」




