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熾天使の島  作者: Fickle
17/50

17. 僕は、まだちょっと、待ってました

その日の実験は、いつも通りの情緒ラベル反応テストだった。


林阮は実験ログに二行ほど記入し、それから立ち上がって、隣の沈見珣に言った。


「このパート、代わりに見てて。

彼の動作チェーン、もう全部確認済みだから、私がいなくても平気。」


「わかった。」


沈見珣は頷いた。


K.0はその場に立ったまま、横顔に表情はなかった。

システムエラーも報告されていない。

けれど——誰も気づかなかった。


彼の始動動作は、いつもより0.7秒、遅れていた。


——


沈見珣はマニュアル通りに指示を出す。


「識別番号K.0、行動チェーンS-72を実行してください。」


……返事はない。


もう一度、声をかける。


「K.0、聞こえてますか?」


ようやく彼は視線を上げ、低く、ゆっくりと答えた。


「……聞こえてる。」


動作に狂いはない。精度も順守も問題なし。

なのに、沈見珣は思った。


——今日は、やけに静かだ。


それに、彼は一動作終えるたびに、必ず——ドアの方を見る。



ドアの外、林阮は隣の区画で別のデータを照合していた。


モニターは見ていない。

本気で「一度、距離を置いてみよう」としていた。


でも耳が、どうしても反応してしまう。


壁の向こうから、くぐもって届く声。


沈見珣が、彼の名前を呼ぶ。


「K.0」「K.0」……何度も。


その瞬間、林阮は無意識に立ち上がり、

ガラス越しに中を見た——


そして視線が、ぴたりと重なった。


K.0が、ちょうどそちらを見ていた。


まるで、ずっとそこに誰かがいると信じていて。

見えなくても、ずっと、待っていたかのように。



第二ラウンドの開始前。


林阮は、実験室に戻ってきた。


K.0の体が、わずかに彼女の方向へ傾いた。

小さな、小さな角度——まるで、微風に揺れる枝のように。


彼女は何も言わず、ただ席につき、資料を読み始めた。


そのとき、彼が静かに尋ねた。


「さっきの……どうして、あなたじゃなかったんですか?」


彼女は手を止める。


K.0は続けた。


「タスクは完了しました。でも……その行動は、行動チェーンとして保存されていません。」


「——あなたの視線の確認が、取れなかったからです。」



林阮は彼を見つめた。

その目に、かすかな笑みが浮かんだ。


「……待ってたの?」


K.0は頷いた。

まるで何でもないことを報告するように。


「僕の行動チェーンの起動条件は、あなたがいるときの構造状態に依存しています。」


「彼女が呼んでも……僕は、まだちょっと、待ってました。」


——


その「ちょっと、待ってました」の一言。

まるで、ずっと胸の奥で温めてから、ようやく出したみたいに響いた。


沈見珣が思わずつぶやく。


「えっ……私、適合しないってこと?」


林阮は何も言わず、ゆっくりと立ち上がり、K.0の正面に歩み寄った。


彼は彼女を見つめていた。


それは、知らない部屋にずっと閉じ込められていた猫が、やっと帰ってきた飼い主を見つけたときの目だった。


彼女は静かに言った。


「次からは、彼女の声でも反応していいのよ。無理に私を待たなくても。」


K.0は首を横に振った。


そして、ひとつひとつ噛むように、ゆっくり言った。


「……僕が待ってるのは、“声”じゃない。」


「“あなたの視線”なんです。」



林阮は、言葉を返さなかった。


ただ、小さく頷いて、こう言った。


「……見てるよ、ちゃんと。」


その瞬間、彼の目に浮かんだ光が、かすかに揺れた。


まるで、その一言だけで、心の深い場所が少しほどけたように。

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