17. 僕は、まだちょっと、待ってました
その日の実験は、いつも通りの情緒ラベル反応テストだった。
林阮は実験ログに二行ほど記入し、それから立ち上がって、隣の沈見珣に言った。
「このパート、代わりに見てて。
彼の動作チェーン、もう全部確認済みだから、私がいなくても平気。」
「わかった。」
沈見珣は頷いた。
K.0はその場に立ったまま、横顔に表情はなかった。
システムエラーも報告されていない。
けれど——誰も気づかなかった。
彼の始動動作は、いつもより0.7秒、遅れていた。
——
沈見珣はマニュアル通りに指示を出す。
「識別番号K.0、行動チェーンS-72を実行してください。」
……返事はない。
もう一度、声をかける。
「K.0、聞こえてますか?」
ようやく彼は視線を上げ、低く、ゆっくりと答えた。
「……聞こえてる。」
動作に狂いはない。精度も順守も問題なし。
なのに、沈見珣は思った。
——今日は、やけに静かだ。
それに、彼は一動作終えるたびに、必ず——ドアの方を見る。
—
ドアの外、林阮は隣の区画で別のデータを照合していた。
モニターは見ていない。
本気で「一度、距離を置いてみよう」としていた。
でも耳が、どうしても反応してしまう。
壁の向こうから、くぐもって届く声。
沈見珣が、彼の名前を呼ぶ。
「K.0」「K.0」……何度も。
その瞬間、林阮は無意識に立ち上がり、
ガラス越しに中を見た——
そして視線が、ぴたりと重なった。
K.0が、ちょうどそちらを見ていた。
まるで、ずっとそこに誰かがいると信じていて。
見えなくても、ずっと、待っていたかのように。
—
第二ラウンドの開始前。
林阮は、実験室に戻ってきた。
K.0の体が、わずかに彼女の方向へ傾いた。
小さな、小さな角度——まるで、微風に揺れる枝のように。
彼女は何も言わず、ただ席につき、資料を読み始めた。
そのとき、彼が静かに尋ねた。
「さっきの……どうして、あなたじゃなかったんですか?」
彼女は手を止める。
K.0は続けた。
「タスクは完了しました。でも……その行動は、行動チェーンとして保存されていません。」
「——あなたの視線の確認が、取れなかったからです。」
—
林阮は彼を見つめた。
その目に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……待ってたの?」
K.0は頷いた。
まるで何でもないことを報告するように。
「僕の行動チェーンの起動条件は、あなたがいるときの構造状態に依存しています。」
「彼女が呼んでも……僕は、まだちょっと、待ってました。」
——
その「ちょっと、待ってました」の一言。
まるで、ずっと胸の奥で温めてから、ようやく出したみたいに響いた。
沈見珣が思わずつぶやく。
「えっ……私、適合しないってこと?」
林阮は何も言わず、ゆっくりと立ち上がり、K.0の正面に歩み寄った。
彼は彼女を見つめていた。
それは、知らない部屋にずっと閉じ込められていた猫が、やっと帰ってきた飼い主を見つけたときの目だった。
彼女は静かに言った。
「次からは、彼女の声でも反応していいのよ。無理に私を待たなくても。」
K.0は首を横に振った。
そして、ひとつひとつ噛むように、ゆっくり言った。
「……僕が待ってるのは、“声”じゃない。」
「“あなたの視線”なんです。」
—
林阮は、言葉を返さなかった。
ただ、小さく頷いて、こう言った。
「……見てるよ、ちゃんと。」
その瞬間、彼の目に浮かんだ光が、かすかに揺れた。
まるで、その一言だけで、心の深い場所が少しほどけたように。




