14. 「誰よりも、彼に似た存在」に変えられていこうとしている
「偏移」の土日の更新は 12:30と19:30 二回のみになります。
その日、研究塔の昼は、気圧が低く、窓の外には霧が残っていた。
会議の通知は突然だった。
「上層部の担当者が、プロジェクト視察に来る」とだけ。
皆、特に気にする様子もなく、コーヒーを淹れ直し、資料を整理して、定刻どおりに席についた。
ドアが開いたとき、歴懐謹が数人のスーツ姿の男たちを連れて入ってきた。
彼の笑顔は柔らかく、会議机に片手を軽く置いて、まるで「子どもたちの描いた絵を見に来た父親」のような、余裕のある姿勢だった。
林阮は末席に座り、前日の行動パターン比較表を静かにめくっていた。顔は上げなかった。
項愈が最初に立ち上がった。
「歴主任、お久しぶりです。」
「皆そろってるか。よし。」
歴懐謹は頷くと、スクリーンに一つのタスク仕様書を送信した。
「これは協力パートナーからの特別案件だ。
君たちの“偏移行動モジュール”を使って、ある“実在個体の再現”テストを行いたいという要望が出ている。」
「対象のプロフィール、状況設定、感情パス──すべて提供済み。
君たちは新しいバイオロイドを一体選んで、学習を行えばいい。」
沈見珣が口を開いた。
「偏移の本来の目的とは違うように思えます。」
「それは承知している。」歴懐謹は軽く応じた。
「だが、今のK.0の動作安定性を見れば、“Echo Trigger”の完成度は明らかだ。
このまま実応用に使わないのは、むしろ損失だよ。」
彼は一度、言葉を切ってから、声を落として続けた。
「もちろん、強制はしない。
ただ──この案件は、すでに上層の予算チームを通っている。
進捗次第では、次期プロジェクトの資金も確約される。」
空気が、一瞬だけ沈んだ。
そのとき、項愈が口を開いた。
「ちょうど昨日、K.0の新型パスフィッティングをテストしていたんですが、
反応はかなり良好でした。」
「“実在個体の再現”なら──」
彼は林阮に一瞬視線を送り、それから歴懐謹へと向き直る。
「──K.0の自由度を上げるべきです。」
林阮は視線を上げ、眉をほんのわずかに動かした。
項愈は続けた。
「今のK.0は自由度が低すぎます。バイオロイドは台本通りの俳優じゃない。
“人間らしさ”を持たせたいなら、“誰を真似るか”を彼自身に選ばせる必要がある。」
「それが偏移の本質です。」
歴懐謹は答えず、ただじっと彼を見て、やがて頷いた。
「勇気があるな。」
沈見珣が小声で補足する。
「自由度を上げるということは、報酬系の構造にも干渉します。
──つまり、彼の“反応モデル”全体が変わるということ。」
謝一凛がぼそりとつぶやいた。
「……そのうち、自分で誰に調整されたいか選ぶかもね……」
誰も、それには反応しなかった。
林阮がようやく口を開いた。
声は静かで落ち着いていた。
「自由度の調整は、慎重にすべきです。
最低でも、リバースシミュレーションを一度走らせてから──」
「もちろん。テストは走らせます。」項愈は軽く笑った。
「ただ、先に試験的な許可を出していただけるなら……」
彼は歴懐謹を見た。
「自由度を10%だけ上げて、K.0自身に初期シミュレーションに参加させたいんです。
もし適応できるなら、そちらの提供個体データと合わせて、新規モデルに転用できます。」
「ダメなら、ロールバックも可能です。」
歴懐謹は穏やかに笑った。
「じゃあ、その意見を“チーム全体の見解”として受け取っていいか?」
項愈は迷わず頷いた。
「責任は、僕が持ちます。」
林阮は、何も言わなかった。
ただ、モニターに表示されたK.0の“報酬連鎖パラメータ”を見つめていた。
──10%。
たったそれだけの数値変化で、彼の“構造偏移許容度”は、ひとつ上の階層へ進む。
彼は、誰の視線に意味があるかを、自分で選ぶようになる。
どの仕草が繰り返す価値を持つのか。
どの言葉が、心に残るべきなのか。
それすら——彼が決めるようになる。
そのことに気づいた瞬間、彼女はふっと、寒さを感じた。
窓の外では、霧がまだ降りず、光は鈍く沈んでいた。
彼女はモニターのその「10%」を見つめたまま、心のどこかで誰かの笑い声が聞こえたような錯覚を覚えた。
──K.0。編番号ゼロのバイオロイド。
彼は今、私たちの手で、
「誰よりも、彼に似た存在」に変えられていこうとしている。
でも、“彼”はもう、いないのに。




