13. もう二度とその肩に、手を伸ばすことはできなかった
研究区のC塔では、いつもより少し早く、明かりが灯っていた。
K.0は、動作フィードバックテストを終えたばかり。
インタラクション席から立ち上がるそのとき、右腕がわずかに内側へ、重心は前傾、首の角度は左へ。
システムは自動で記録した。
──行動フィッティングパターン:JY.LIN 03
──類似率:92.8%
──参照元:林済瑜 JY.LIN
「……え、これマジで似すぎじゃね?」
項愈がリプレイを見ながら声を漏らす。
「ね、林先輩って、前もこんな感じで立ち上がってたよね。あとは保温ボトルさえ持ってれば完コピ。」
謝一凛がくすっと笑いながら覗き込んでくる。
「K.0って、林済瑜2.0じゃん。
感応実験のときもさ、起き上がるとき絶対こうやって肩震わせてたし。」
沈見珣が静かに補足した。
「視線の動きも似てきてる。目の落ちる位置が、ちょうど顎のライン。完全にサンプル通り。」
林阮は、端末の向こうで無言だった。
机の縁に添えた指先が、ゆっくり滑る。
まるで、言葉になる前の思考の痕跡をなぞるように。
「そういえば、林さん」沈見珣が唐突に振り返る。
「この訓練データ選んだの、あなただよね? なんで林先輩のやつにしたの? 俺ら誰も予想してなかったよ。」
項愈がうなずく。「ああ……でも、たしか林済瑜って、行動構造の記録、めっちゃ精密だったよな。あとで“高密度対話被験体”とかに分類されてたし。」
誰も、林阮の視線の先にあるものに気づかなかった。
彼女はただ、K.0の指先が無意識にやった「回すような動き」に見入っていた。
——それは、林済瑜が考え事をするとき、よくやる癖だった。
人差し指で中指の背を、トン、トンと二度軽く叩く。
まるで、まだ形になっていない思考の扉を、そっとノックするかのように。
そしていつも彼女は、それを見て思った。
その指、今すぐ止めたい。
「もう考えなくていいよ」って、キスでもしてしまいたい。
「でもさぁ……」項愈が少し眉をひそめて言う。
「林済瑜の行動データって、マニアックすぎない? どうしてそれをK.0のテンプレに?」
林阮は静かに言った。
「彼の動作は、“きれい”なの。」
「動きに無駄がなく、ルートが単一で、感情によるノイズもほとんどない。
行動構造のフレームとして、最適。」
嘘は言っていなかった。
ただ、その“きれい”なルートを、
彼の背に触れながら、一つずつ覚えたことは、言わなかっただけだった。
夜、彼が部屋に入ってくるとき。
彼女は知っていた。右足が先か、左手で上着を脱ぐか——その順番まで。
K.0は、端末の灯りの中に立っていた。
顔は違う。でも、その指、その呼吸、その間のとり方は、すべてが既視感に満ちていた。
まるで、雨上がりにふいに蘇る、旧い街道名のように。
何でもないのに、胸をつかれるような、記憶の呼び水。
「なあ……」項愈が画面越しにつぶやく。
「K.0って、もう“誰か”じゃなくて、“あの人”に見えてこない?」
「林先輩ってさ、静かに人の話を聞いて、最後に必ずこう聞くんだよ。
“どう返してほしいの?”って。」
謝一凛が笑う。「言われたことあるわ。固まったもん。あとで知ったけど、あれって、ちゃんと聞いてた証拠なんだってな。」
沈見珣がぽつりと言う。「K.0も、きっと聞いてるよ。
まだ“言葉にならなかった想い”を、どう受け取ればいいのか分からないだけ。」
項愈:「ま、それも学習だろ。テンプレ、あるんだし。」
林阮は、そっと目を閉じた。
テンプレート——その言葉に、彼らは軽い親しみを込めていたけど。
それは違う。
それは、夜更けのラボで「まだ起きてる?」と訊いてくれた声だった。
風の強い夜に「傘、忘れてない?」とメッセージをくれた人だった。
彼らが軽々しく名前を呼ぶたび、彼女の心臓は一瞬止まり、また動き出した。
「K.0、次の行動連鎖、再生して。」
彼女の声は穏やかで、ほんの少し、揺れていた。
K.0は応じ、歩き出す。
訓練台へ向かう前、彼はふいに左肩を少し上げた。
緊張した肩甲骨をほぐすような、ささやかな身じろぎ。
——林済瑜が、疲れたときによくやっていた動きだった。
彼女は笑ってた。「それ、セルフ肩もみ?」
彼は照れたように言った。「だって、誰もやってくれないから。」
今、彼女はわずか1メートルの距離にいる。
なのに、もう二度とその肩に、手を伸ばすことはできなかった。




