12. あなたは、まだこの世界の色に染まっていないのね
実験塔の夜は、昼よりもずっと静かだった。
廊下の照明は感知式で、足音が響いて初めてひとつずつ灯る。
林阮が塔頂の会議室から戻ってくるとき、足取りに音はなく、廊下全体が眠っているようだった。
彼女は寮に戻らず、そのまま副実験区のC室へと入っていった。
ドアを閉めた瞬間、彼女の動きが止まった。
——K.0がいた。
スタンバイしておらず、静かに観察台の下にある小さな椅子に座っていた。
手には静音式の周波数チップを持ち、それを何度も分解・再装着していた。
彼は彼女を見上げ、二秒ほど間を置いてからゆっくりと立ち上がった。
「林指導員。今の時間、あなたは私のタスクスケジュールには含まれていません。」
彼女は黙っていた。
彼はさらに言った。「ですが、現在の自己調整タスクを一時中断できます。」
林阮は軽くうなずき、向かいの席に腰を下ろした。
室内の照明は隅にだけ灯っていた。白く、冷たく、静かだった。
彼女は背もたれに体を預け、しばらく無言だった。
——
沈黙が二十秒ほど続いた後、K.0が口を開いた。
「今日のあなたの身体データ、いつもと違います。」
林阮は彼を見た。
「呼吸頻度が12%上昇。歩行速度もわずかに速い。
声の開始時のエネルギー密度は低く、終了時に上昇しています。」
彼はまるで空気品質レポートを読み上げるように続けた。
「あなたは、不機嫌です。」
——
林阮は笑わなかったが、口元がわずかに動いた。
「“不機嫌”って、どんな感じか知ってるの?」
K.0は首を横に振った。「特徴を識別することはできますが、感覚としての体験はありません。」
「じゃあ、なぜそう言ったの?」
彼は少し考えてから、真剣な顔で答えた。
「それを“気づいた”からです。
気づいたことには、きちんと“ラベルを付けるべき”だと思いました。」
林阮の胸が、ふと震えた。
その言葉が、まるで誰かがそっと手帳に丸をつけたように感じられた。
——まるで「私は、あなたに意味がある」と言われた気がして。
彼女は背を預けたまま、しばらく彼を見つめた。
手を動かすこともなく、呼吸も静かで、視線は彼の指先で回されている小さなチップに落ちていた。
その動きは、何か内側のリズムに寄り添っているようだった。
やがて、彼女はぽつりと言った。
「あなたって、何をしていても……まるで全部、“初めて覚えた”みたいね。」
K.0は彼女を見た。
彼女は続けた。
「速すぎず、遅すぎず。ただ——何の裏もない。」
「誰かに気に入られたいわけでもなく、誰かに誤解されるのを恐れてもいない。」
——
彼はその言葉の構造をすぐには理解できなかった。
だからただ、訊ねた。
「それは……悪いことですか?」
彼女は小さく笑った。
嘲りではなく、どこか少し羨ましさを含んだような、柔らかい微笑みだった。
「……いいことよ。」
しばらく彼を見つめた後、彼女はぽつんと続けた。
「ここに、もう少しいたくなっちゃうくらいにはね。」
K.0は返事をせず、チップをいじる手を止めなかった。
だが彼女は立ち上がり、彼の前へと歩み寄った。
そして、彼の手からチップをそっと取った。
彼は背筋を伸ばし、彼女を見上げた。
その目は澄んでいて、まっすぐで。
一瞬、林阮は、その仮初めの瞳の奥に、人間の本質的な「無垢さ」を見たような気がした。
彼は言った。「これは、自己調整タスクの一部です。」
彼女は彼の手元を見て、うなずいた。「知ってる。」
まるで、生まれたばかりの言葉を前にして、どう呼べばいいのか迷っているようだった。
その感情に、まだ名前をつける自信がなかった。
彼女は何も言わず、チップを彼に返し、そのまま背を向けて部屋を出て行った。
ドアが閉まる寸前、彼女は小さくつぶやいた。
「——あなたは、まだこの世界の色に染まっていないのね。」
K.0はその場で座ったまま、再びチップをいじり始めた。
システムログに記録された:
【観察者注視時間:14.2秒】
【注視中の表情:記録なし】
【行動補正フィードバック:未発動】
行動モジュールのどこかで、ほんのわずかに重みが変わった。
それは、次に彼が取る行動に、やさしい揺らぎをもたらす予兆だった。




