表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熾天使の島  作者: Fickle
11/51

11. ここはもう、君が夢を語るだけの場所じゃない

林阮が塔の最上階にある会議室のドアを開けたとき、室内の照明はまだ落とされていた。


西側の大きな窓から夕陽が差し込み、長いテーブルの上に伸びている。

その先端には、すでに誰かが静かに座っていた。


彼は光を背に、背筋を伸ばして座っていた。

銀灰色のスーツには一切の乱れがなく、髪も端整に整えられていた。

指先では、黒いサインペンが無言で回されていた。


彼女はすぐに、その姿を見て誰かを思い出した。


「歴先生……」


声をかけると、彼はゆっくりと振り向き、彼女の顔に目を留めて、穏やかに微笑んだ。


「林ちゃん。久しぶりだね。」


その声は昔と変わらなかった。

低くて静かで、まるで学舎の古い時計が、時を知らせるような音だった。


——


彼女が最後に彼に会ったのは、七年前の研究所の卒業式だった。

あの日、彼は白いシャツを着て講堂に立ち、「非再帰型人格における倫理構造の限界」について語っていた。


彼女は最前列に座りながら、黒板に書かれた一文をそっと書き留めた。


「人が人であるとは、定義にあるのではなく、凡庸から逸れる偏移の勇気にある。」


そのとき彼女は、初めて彼にこう尋ねた—— 「先生、AIは本当に人間のことを理解できるのでしょうか?」


彼はすぐには答えず、数秒だけ微笑んで言った。


「それを確かめるのは、林ちゃんの役目だよ。待っているよ。」


——彼女が「待っている」と言われて、それを本気で信じた、最初の瞬間だった。


——


今、彼は長テーブルの端に座り、背後に沈む夕焼けが広がっていた。

彼の目には、まるで成功したプロジェクトの報告を見るような安堵が浮かんでいた。


「林ちゃんの“状況トリガー連鎖仮説”、読ませてもらったよ。」


さらりとした調子で言う。「なかなか良い切り口だね。私たちの時代よりも、遥かに早いペースで進んでいる。」


彼女は黙っていた。


彼は続けた。「もし仮に、一体のバイオロイドが、特定の人物が近づいたとき、二人にしか分からない動作を再現するとしたら——君は、どう思う?」


林阮は目を伏せた。「感情推定アルゴリズムまでは組み込んでいません。」

彼はうなずいた。「でも、何が起きるかは想像できるだろう?」


そう言って彼は立ち上がり、窓際へとゆっくり歩いた。

夕陽が彼の横顔を照らし、かつてのままの輪郭を浮かび上がらせていた。


「ある依頼が来ているんだ。」

「政府主導の“感情再建プロジェクト”から。」


「彼らが必要としているのは、“過去の感情パターンを再現する機能”を持つバイオロイド。」


「クライアントは第一級企業の経営者。三年前に妻を亡くしてから、人と会うことを避け、自宅に引きこもるようになった。」


「彼が求めているのは、新しい人じゃない。

欲しいのは——“彼女”なんだ。」


林阮は顔を上げた。「……つまり、その女性の行動パターンを、バイオロイドに再現させるということですか?」


彼は穏やかに微笑んで頷いた。「君が提案した“Echo Trigger”を使えば、それが可能になる。」


「彼のそばにいるときだけ、彼女の仕草を再現する。

それだけで、彼は救われるかもしれない。」


林阮はしばらく沈黙した。


そして、小さな声で尋ねた。「それは……研究になるのでしょうか?」


「もちろんだよ。」と彼は柔らかく言った。「これは、君の研究が次の段階に進んだ証拠だ。」


「もし私たちが、ある人の人生で最もつらい場所に、少しでも温度を戻せるなら——」


「それこそが、テクノロジーの意味だろう?」


少し間を置いて、さらに静かに加えた。


「君の論文にあった“偏移を体温に変える”って、まさにこれのことじゃないか。」


——


林阮は、ただ彼を見つめていた。


その瞬間、彼女ははっきりと理解した。


眼差しも声色も昔と変わらない。

だが、彼の言葉のすべては「探究」のためではなく、「用途」のために語られていた。


彼女はゆっくりと立ち上がった。

唇に微笑みはなく、

その瞳だけが、静かに波を立てていた。


彼は言葉を挟まず、彼女の反応を待っていた。


彼女はテーブルの端まで歩き、椅子の背にそっと手を置いた。

それは、学生時代に彼の話を聞き逃さないためにしていた仕草だった。


そして、ようやく口を開いた。


「先生、昔こう言っていましたよね。

“本当に価値のあるのは、不確定性だ”って。」


歴懐谨は、動きを止めた。


彼女は続ける。


「知識体系の中で、唯一“新しい発見”に通じる変数。」


「なのに今、先生がやろうとしているのは——亡くなった人の再現です。」


「私たちが見つけた構造的偏移を利用して、生きている人間に“過去の温もり”を与える。

でも、それは偏移じゃありません。

幻想をパッケージにして、提供しているだけです。」


彼の笑顔はそのままだったが、声には少しだけ影が差した。


「私は好きでやっていると思うのかい?」


「林ちゃん、この施設にいる五十人以上の研究員、みんなプロジェクト予算で生きてるんだよ。」


「全ての報告が採用されるわけじゃないし、どんなアイデアにも資金が下りるとは限らない。」


「どれだけ純粋な研究でも、それを理解できる人がいなければ——

その“理解者”っていうのは、たいてい“出資者”なんだ。」


——


林阮は何も言わなかった。


ただ、目の前の“Echo Trigger”論文のドラフトを見つめた。

そこには、昨日彼が赤ペンで書いたコメントがあった。


「回帰条件が厳しすぎる。状況の自由度をもっと広げた方がいい。」


あのとき、彼女はそれを“学術的評価”だと思っていた。


けれど今はわかる。

“自由度”という言葉は、すでに“マーケット仕様”への布石だったのだと。


——


彼女の声は、静かで落ち着いていた。


「先生は、私の指導者です。それは否定しません。」


「でも、もし研究が誰かの都合に合わせないと生きていけないのなら……」


「それってもう、“消費されるだけの感情シミュレーション”を作ってるのと同じです。」


歴懐谨の眉がわずかに動いた。


そして、少し沈んだ声で言った。


「林ちゃん、私は何人もの才能ある研究者を見てきたよ。

理想を守るあまり、採択すらされずに終わってしまった人たちを。」


「君には、そうなってほしくないんだ。」


彼女は彼をまっすぐ見つめた。


言いたい言葉が喉元まで来ていた。


——それでも、価値があるかもしれない。


だが、彼女はそれを口にしなかった。


ただ一言だけ、そっと呟いた。


「先生にとっての“偏移”も、信念が軌道を外れたという意味なんですね。」


——


歴懐谨の笑みが、そこで初めて消えた。


姿勢を正し、低く抑えた声で言った。


「君は理想が強すぎる。

でも、そろそろ現実を見るべきだ。


現実っていうのは、成果をこの世界に“届ける”場所なんだ。


ここはもう、君が夢を語るだけの場所じゃない。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ