4.アルゼィラン伯爵邸にて
朝、王宮の城門が開いて直ぐに出発し、実家に寄って書類だけ受け取って、お祖父様の屋敷に向かう予定だった。しかし、ライナス様の馬車に乗せて頂いても、王都郊外の高台にあるアルゼィラン伯爵家の屋敷に着く頃には夕方近くなってしまっていた。
辻馬車を乗り継いで今日中にどうやってたどり着くつもりだったのか。普段の判断力を取り戻したつもりだったけれど、昨日からの衝撃に思考が壊れたままかもしれない。
「着いたよフローラ」
微笑みながら私の手の甲を優しく叩くライナス様は、一昨日私に媚薬を盛られ襲われかけたことになっている。
「高台は少し冷えるな、羽織っておいて」
伯爵家の玄関は目と鼻の先である。それなのに甲斐甲斐しくストールを巻いてくれるライナス様は目の前の不埒な犯人によって一晩熱に魘され苦しんだ被害者だ。手を取り寄り添ってエスコートする姿に胸は高鳴るけれど、これは言うなれば犯人護送。逃げないようにがっしりと腰を捕らえているだけ──
「フローラ!よく帰ってきた!」
お祖父様の声で現実に引き戻された。両手を広げ歓迎してくれるいつも通りのお祖父様の姿。
「この度はご迷惑をお掛けしまして……」
「何が迷惑か!一年ぶりだ、よく顔を見せておくれ」
ライナス様がさっと手を離して背中を押してくれた。人前でお祖父様に恥ずかしげもなく甘えるには大人になり過ぎてしまったけど、思い切って抱擁を交わす。お祖父様の笑顔にホッとした。
「馬車を出そうかとジェシーと相談しとったところだ。ライナス・オーノック殿、感謝申し上げます」
「こちらこそ、突然お邪魔して申し訳ない」
伯爵家の屋敷は、王都郊外にある貴族屋敷の中でもその豪華絢爛さと歴史的価値で有名だ。お祖父様の催す夜会は招待状を王国中の貴族から催促されるほど。顔の広いお祖父様はライナス様とも面識があったようだ。
屋敷の応接間にはお祖母様が待っていた。
「フローラ!会いたかったわ。ライナス様もようこそ」
「急な事で恐縮ですが、アルゼィラン伯爵にお願いがあってやって参りました」
お祖父様は驚いた様子もなく、心得たりとばかりに頷いて「こちらへ」とライナス様と共に執務室に向かって行った。
「そう、そうなのね」
お祖母様は私の肩を撫でながら満面の笑みである。
──私だけ、何が何やらわからない。
お祖母様から伯爵家の近況を聞きながらお茶を飲む。お祖父様から今回の事件の詳細は聞いていないのかもしれない。お祖父様はともかく、お祖母様に媚薬云々の話を聞かれるのは恥ずかしい。
しばらくすると二人が応接間に戻ってきた。
「フローラ、ライナス殿から事情は聞いたよ。しばらくうちでゆっくりしたらどうかと思ったが……アルフレッド殿下も賛成なさっているのなら、オーノック侯爵様にお世話になるのが最善だろう」
王太子殿下が私の更正のためにオーノック侯爵家で侍女奉公することに賛成しているなんて初耳である。殿下はいったいどういうおつもりだろうか?思わずライナス様に窺うような視線を向ける。
「アルフレッド殿下も気に掛けていらっしゃった」
「そうですか……」
ひたすら良い笑顔を返されてしまった。
お祖父様はオーノック侯爵家で働くことが王宮を辞した私が今後の身の振り方を考える、丁度良い猶予期間になると考えていらっしゃるのかもしれない。
確かに、祖父の屋敷でのんびりお世話になっていられる年齢ではない。王家からの慰謝料とこれまでの給金、急ぎ整理した子爵家からの財産分を合わせれば、十分生きていける。
そのうちにお祖父様が先々の事を決めて下さるだろう。
「心配いらないよ、フローラ。お前が王宮勤めに疲れたら、家督を譲り領地に引っ込む時には一緒に連れ帰ろうと決めていた。だがなにも年寄りとのつまらん生活を送る必要もあるまい。侯爵家では王宮とも違った学びもあるだろう」
「疲れたらいつでも一緒に領地へ帰りましょう」
「お祖父様、お祖母様、ありがとうございます」
十四歳で王宮に上がった頃は視野が狭い子どもで、素直に祖父母を頼ることが出来なかった。もっと早く祖父母に助けを求めていれば、と後悔したこともあった。けれど、あの時のまま、祖父母は私が甘える日をずっと待っていてくれる。だからこそ、この十年頑張ることが出来た。
「では私はフローラが疲れないように細心の注意を払わなくてはいけませんね」
「ふふふ、そうですわね。大事な孫娘ですからよろしくお願いしますね」
「承知しました。フローラ、私は先に侯爵家に戻って準備をする。明日迎えに来るから、今日はお祖父様お祖母様とゆっくり過ごしてくれ」
ライナス様は決して近くない王都と伯爵邸を明日も往復してくれるようだ。本当に何から何まで申し訳がない。
「はい、お世話になります」
下げた頭を優しく撫でられる。頬が熱くなる。門の向こうで馬車の音が聞こえなくなるまでじっと見送っていた。
「まぁまぁ、女性にはそっけない方と聞いていたけれど」
「オーノック侯爵から人となりは再三再四聞かされている。任せようじゃないか」
振り返るとお祖父様とお祖母様が微笑んでいた。
「さぁ短い時間になるが家族の時間としようじゃないか」
お祖父様とお祖母様に左右半分ずつ抱きしめられながら、屋敷の中へと戻る。
「久しぶりにフローラのヴィオラの演奏が聴きたいわ」
「私はお祖母様のオルガンの演奏を聴きたいです」
微笑み合うけれど、お祖母さまは演奏に厳しくてちょっとだけ緊張する。
「では二人で私の為に弾いてくれ!」
「やだあなた、今日は私フローラへの思いを込めて弾きますわ」
「意地悪なことを言うなジェシー」
「お祖父様今日は私にお祖母様を譲ってくださいまし」
「フローラまで!」
声を出して笑いあって、これが私の家族だと実感する。
明日、本当にライナス様が迎えにいらして、それで私は侯爵家にお邪魔することになるのかと、不思議な心地でその夜を過ごした。