31.エピローグ
「すまなかった!!」
事件解決から一週間と数日、王太子殿下が私に謝りたいと仰って、今日は殿下の執務室に来ている。
事件のその後を私にも明かせる範囲で、と伺った。殿下が仰っていた安寧な治世、に近付いたそうだ。そうしてほのぼのとお茶を飲んでいたのだが──
「殴ってくれ!」
「えっと……無理です」
思いがけず、本気の謝罪を受けて戸惑っている。
「殿下、止めて下さい。フローラが困っています」
困る、というか。王太子殿下が策を講じなければ、ライナス様とミリアーナ殿下が婚姻していた、と聞かされた。自分の現金さに驚きつつ、王太子殿下には感謝しているのだ。
「すべてライナス様を慮ってのこと。そんなアルフレッド殿下にどうして私が怒れましょう」
ライナス様が今にもキスをしそうな距離感で見つめてくる。瞳に〈感激〉と書いてあるようだ。
「フローラ……」
呆れ顔で椅子にもたれかかった王太子殿下は、それでもちょっとうれしそうだ。
「家でやってくれ……。でもまぁこれで、僕の婚約者選びも捗るというものだよ。ライナス、早速働いてくれよ」
「殿下、そのことですが──」
ライナス様の話を聞きながら殿下の綺羅綺羅しいお顔がみるみる歪む。
王太子殿下の側近となって以降、ずっと王都に住んでいたが、本来は領地に戻って侯爵となる準備を始める頃。同世代で一年中王都に居る爵位継承者は殆ど居ない。というわけで──
「母に任せきりでしたし、父はまだ陛下に離してもらえないようですので、領地で結婚生活を始めようと思います」
「ちょっと待て!」
「殿下も幅広い世代の臣下を側に置くべきです。私も領地で経験を積み、殿下に進言できるような骨のある人間になって、社交シーズンには戻って参りますから」
「確かに、僕はお前にこう……ズバッと忠言してくれるような存在になって欲しくて……だがしかし!」
「今回の件で取り立てるべき廷臣は明らかになりました。あいつは口うるさいとか、規則に細かいとか、文句を言わずに地固めするべきです」
「うん、お前の言うとおりだ。だがな──」
さっとライナス様が私の手を流れるように引いて立ち上がる。
「殿下!今日はこのあと午餐会ですね。私は結婚の準備で忙しいので失礼します。行こうフローラ!」
「お、おいライナス!ちょっと待て──!」
◇ ◇ ◇
それからしばらく後、宰相である侯爵様が──まだお父様と呼ぶのは恥ずかしい──久しぶりにご帰宅なさった。
「申し訳なかったね、フローラさん。少し考えればわかりそうなことをこの息子は」
侯爵様がライナス様の肩をばしばし叩いている。
宰相様は端から媚薬を盛ったのはミリアーナ殿下だと推測していたらしい。けれど、国王陛下は隣国に嫁がせない口実をギリギリまで探っていた。ミリアーナ殿下が嫁いでくるなんてありえん……と口を噤んで成り行きを見守っていたそうだ。
「フローラさんの真面目な人柄は私でも聞き及んでいる。それなのにお前は……」
「面目次第もありません」
「まあ、優しいお嫁さんの為に結婚までの段取りは私がつけるから、二人とも少しゆっくりしなさい」
「ありがとうございます」
「ライナス、言葉を尽くす努力をしなさい」
「はい、父上……」
──そんな侯爵様とのやり取りがあったはずなのに、どうしてこうなるんだろう。
「やはり、殴って欲しい!」
「む、無理です!」
オーノック侯爵家の森のようなお庭は、お母様の指示で四阿やベンチ、花壇が増えていた。季節はすっかり夏で、簡素な生成りのシャツにライナス様の漆黒の髪が爽やかだ。こちらへ来てすぐの頃より少し髪が伸びた。
ベンチの隣に座るライナス様は今日も凛々しくって素敵だけれど──
言葉を尽くすように言われたそばから、殴れとはこれ如何に。
実はここ最近繰り返されている問答だ。殴ってくれという王太子殿下を止めていたのはライナス様なのに。私の手を取って自分の頬に当てようとするので、頬を包み込んで止める。
「父上よりフローラを理解していなかったなんて、不甲斐なさ過ぎる。改めて、謝らせてくれ」
「もう、いいのに……」
暗い雰囲気にしたくなくて、伸びたライナス様の髪に思い切ってくしゃくしゃと両手で触れる。
「無理に侯爵家に連れ帰って働かせてごめん」
「……うれしかったし、楽しかったです」
髪を耳に掛けるように撫でながらふざけて擽れば、ちょっとうらめしそうな顔をするライナス様。謝って欲しくなど無いのだ。
「勝手にアルゼィラン伯爵と婚姻の話を進めてごめん」
「驚いたけど、うれしかったです」
くすくすっと思わず笑い声が出る。それは、本当に驚いた。最初にアルゼィラン伯爵家に向かった時点で、婚約の書類を揃えていたとは。
「いきなり抱きしめたりキスしたりしてごめん」
「……恥ずかしかったけど、うれしかったです」
どの瞬間もうれしかった。でも、今もそう言いながら恥ずかしくなって、顔を見られたくなくてライナス様の胸の中に収まる。
「本当?」
覗き込まれる。
「本当です。そろそろ信じて下さい」
今日まで、あのときのあれは嫌じゃなかった?と何度もあれこれ確認されているのだ。
「あとは……キスで舌を入れたり、フローラの身体をあちこち触って……ごめん」
「──うー、うれしかったです!」
「本当!?」
そう言ってうれしそうにぎゅっと抱きしめるライナス様が可愛くて、抗えない。唇が額へ頬へ降ってくるから、応えなくちゃと正面に顔を向ける。
「律儀でホントかわい……」
唇と唇が合わさって、鼻先まで触れる。食べられてしまいたい。
少し開いた唇へ遠慮なく口内に侵入してくる。侵入し返す勇気も絡める余裕も無い私は、ライナス様の舌先を吸うような形になってしまって──舌先の生々しい感触に興奮してしまう自分に戸惑って顔を離してしまう。
「……いや?」
切なげに見つめる表情も麗しくってキラキラして見える。なんて優しい目をしているんだろう。
「……嫌じゃないです」
嫌なわけ無い。
「じゃあどうして逃げるの?」
「……舌、チュってしちゃうの、はずかしいからっ」
学んだのだ。私は思ったことを隠さないほうが良いと。特にライナス様に対して。
顔をそむけていたら、再び深く口付けられる。やっぱり口の中を明け渡すだけでいっぱいいっぱいで、応えようとしてもその熱い舌に吸い付くだけだ。
きっと私、キスがとんでもなく下手だ。経験は無いけど、わかる。動きの止まったライナス様に呆れられてしまったかと思って見上げる。
優しい目が、ぎらりと熱を持った──。
「──フローラは媚薬いらずだ」
そう言って再び降った唇に今度ははむはむと唇を食まれる。首筋に回された手が指の平で爪でと往復して背筋にぞくぞくとしたものが走る。
くすぐったさだけじゃない、全身から湧き上がるような歓喜の震えだ。
「ずっと、こうしていたい」
息も食べられる勢いでキスをされる。ライナス様が唇を動かすのを指でも感じたくて、顎先に手を添える。
私の爪も少し伸びた。ライナス様が側に居る安心感は自分でも驚くほどだった。
唇が離れて今度は指先を舐められる。あまりにも淫靡でくらくらする。
「暑い……続きは部屋でしようか?」
「つづき……侯爵様が言葉を、と。私達はもう少しお話をするべきかと……」
じっと見つめながら言うと、ライナス様が深く頷いたので安心したら……。
「フローラは正しい。じゃあ触れ合いながら話をしよう」
「んん!それじゃ話せないです!」
次々と降る唇を、私は一生避けられずに過ごすのだろう。
お母様の指示によるお庭の改装が、将来の孫のためだったと知るのは、割とすぐのことだった。




