29.初恋の顛末
ミリアーナ殿下の見事な暴走により禁止薬物の流通ルートが暴かれた。嫁ぎ先のモルスラードが裏で手を引いたのではという憂いも無事晴れた。
王太子殿下にとってもご満足の行く決着だったようで、何よりである。
何よりではあるけれど──
「ひどい……」
めったに出ない独り言が出た。犯人ガッティア辺境伯が最後にひと暴れし、宮中楽団の控室はひどい有様だ。
取り急ぎ濡れてしまった楽器ケースは拭いて、紙を詰め、カビないよう応急処置をする。楽器が入っていたらとぞっとしながら破損がある物を仕分けていく。大型の楽器ケースは開けるだけでも一苦労だった。あとでシルクの部屋でお湯を貰わなきゃと汗を拭う。
──今日もシルクのところでお世話になろう。ライナス様には後でお手紙を書こう。
「大変でしょう、手伝います」
心臓が止まるかと思った。開け放されていた入り口から声がする。
初めて言葉を交わした時と同じ台詞、同じ微笑みで、初恋の人が立っていた。
しばらく会えないものだと思っていたから、驚きで手が止まる。
「ありがとうございます」
聞きたいことも話したいこともあるはずなのに、黙々と片付けをしてしまう。時々ライナス様がなにか言いたげにひと呼吸置いてこちらを見ているのに気付いていたけれど、何も言えなかった。
ちらりと見れば目が合って、苦笑いを交わす。
「覚えてる?」
ライナス様にしては子どもっぽい口調。思い浮かべているのは、八年前のあの日のことだと、その目を見てすぐにわかった。こんな誠実な瞳をどうして疑ったりしたんだろうと、不思議にすら思う。
「あの日も、散らかった部屋を一緒に片付けて下さいましたね」
あの日、あの時、本当に嬉しかったのだ。憧れの気持ちが、恋に変わった瞬間だった。
「フローラは、頑張りすぎてしまうから……」
手は止めなかったけれど、頭に疑問符が浮かんだ。
「ライナス様は私のこと、ご存知だったんですか?」
「声を、掛ける機会をずっと探してた。あの日もあなたがまた一人で遅くまで作業するんじゃないかと気になって」
「え……?」
「十年だ。フローラが王宮に上がったときから、ずっと見ていた。王女宮の敷地も庭園も、王太子殿下の執務室から見渡せるんだよ」
ライナス様は決まり悪そうに目を伏せている。
「フローラが媚薬を盛ったと信じて、舞い上がったんだ。本当にただ舞い上がって……あなたを利用しようとかそんなつもりは少しもなかった」
ライナス様の深呼吸の音が聞こえる。そういえば楽団ホールはどの部屋も音が響く設計だったな、と思い出す。
「ずっと好きだったんだ、フローラ」
ライナス様の声がよく響いて、私の心臓の奥まで震わせた。
「だが、それがフローラの尊厳を踏みにじって良い理由にはならない。本当にすまなかった」
俯けていた頭をさらに深く下げた。
何か言おうとするけれど、喉が詰まる。覚悟を決める前に告白と告解をされて、それもライナス様は取り乱した様子はなくて……なんと応えれば良いだろう。
「フローラが、側に居ると、ひどく我慢が利かなくて、あなたがどれほど戸惑い、傷ついたか……」
そうぽつりぽつりと話すライナス様はひどく苦しそうだ。膝立ちのまま、広げた楽器ケースを避けながら不格好にライナス様に近寄る。顔を上げたライナス様と目が合った瞬間、自然と身体が動いてその大きな身体を抱きしめた。
告白の喜びよりも、目の前に居る彼が泣きそうな顔をしていることが辛くて──。
「軽蔑されて、二度と会えないと思っていたから、ライナス様が迎えにいらして、とても戸惑いました」
ライナス様をじっと見つめる。瞳から真剣な気持ちが伝われば良いな。
「利用されているんだと思い込んで、それでもライナス様と過ごす日々がうれしくて、どんどん苦しくなりました」
「フローラ……」
話したかったことを言葉に出来ているだろうか。涙目のライナス様を見ていたら、私も涙が溢れてきた。
「なのに、私も……私は舞い上がってしまうのが怖くて、ライナス様がそんなことするわけ無いって信じなかったの。ごめんなさい」
「フローラが謝ることなんて無い」
ライナス様が抱きしめて私の頭を抱える。耳元でライナス様が鼻をすする音が聞こえた。
「抱きしめてもらえて、うれしかった。好きだと言ってもらえてうれしかったの……」
「……フローラ、大好きだよ」
私がライナス様の涙を拭いて、ライナス様が私の涙を拭く。窓から西日が差して、お互いじわりと汗までかいている。
静かな午後に、二人きりで、どんどん溢れる涙にお互い忙しなく涙を拭い合う。子ども同士の喧嘩の仲直りみたいだと、いつかと同じようなことを思って笑ってしまった。
「うれしい、フローラの笑顔、大好きだ」
そう言われると途端に恥ずかしくなって、顔を覆う。ライナス様が手を重ね取って握りしめて、そのまま手を引かれてソファに並び座った。
昨日まで当たり前のように並んで座っていたのに、もう二度と無いと思っていたから、それだけのことでうれしくなった。手を取り合って見つめ合う。
「もう一つ、謝らなければならない」
「はい」
もうちょっとやそっとのことでは驚かない、と気構える。
「さっき、辺境伯にフローラのことを婚約者だと言った」
「はい」
「フローラは、私の婚約者だ」
「……はい?」
うれしい、けれど、婚約者になる、ではなくて……?
「すまない、舞い上がって……フローラ・アルゼィラン伯爵令嬢、あなたはわたしの婚約者だ」
「私が……ライナス様の婚約者……?」
気付かぬうちに姓まで変わっている。
「フローラが母やニーナとドレスを相談していた時、私もアルゼィラン伯爵夫妻と婚約指輪の相談をしていたんだ」
指輪へ視線を落とす。母の嫁入り道具だったパリュールに合わせた黒真珠の指輪だった。
「どうか、私の妻になって欲しい」
「──頷いてもいいのですか……?」
「頷いてくれなきゃやだ」
そう言ってぎゅっと抱きしめられた。
「……はい、ライナス様」
顔を寄せ合って微笑み合う。震える手で、初めて見るくらい緊張した様子でライナス様が指輪を嵌めて下さる。その甲に唇が落とされる。
「えっと……良いかな?」
改めて向き合うと、ライナス様が伺うように聞いてきた。
「き、聞かないでください」
まっすぐ唇が向かってきて、思い切って私からもライナス様へ顔を寄せる。ふにっと唇が触れて、感触を確かめるように優しく動かす。
思いが通じ合っていると知って、初めてのキスでライナス様はどんな表情をされているだろうか。気になって身を引いて見つめると──
「フローラから、キスしてくれた」
感極まった表情で真っ赤になって口元を覆うライナス様は……鼻血を流していた。
「ライナス様!血が!」
ギロークのヴィオラがお祖父様からの婚約祝だったと知るのはもう少し後のことだった。




