17.残酷な人
シルクに勇気をもらった。
十年前、実家を出ようと王宮に出仕することを決めた。あの時も、私なんかが王宮でやっていけるだろうかとうじうじ悩む背中をシルクが押してくれた。
『自分の人生の為に家を出るの。このまま子爵家にいてもフローラが得られるものなんてない。大丈夫、フローラならできる』
馬車に揺られながら自分がこれからすべきことを考える。常識で考えれば、今の私とライナス様の関係は不健全とすら言える。すでにライナス様は女嫌いとはとても思えない。これ以上の練習が必要なのか、直接ライナス様に尋ねよう。
侯爵家に帰宅するとライナス様が玄関ホールまで降りてきて下さった。「おかえり」と声を掛けて下さる。記憶のある内でお祖父様お祖母様以外の人におかえり、と初めて言われたことに気付く。
優しい時間だ。アルゼィラン伯爵家での時間ともまた違う、幸せな時間。
そんな風に幸せな気分になって油断すれば、ライナス様が隣に寄り添って座り、いつもの甘い空気が漂い始めてしまう。私の思考はぼんやりと停止していく。
こういうとき、先に会話のペースまでライナス様に持っていかれると私はぐずぐず流されてしまう。自分から正しい距離感で会話を始めなくては。
「習い事を許可して頂いてありがとうございました」
「楽しかった?」
そう聞かれて今日の様子をあれこれお話する。侯爵家にお世話になっている身としてしっかり報告しなくては、と思いつつ、一日の中でライナス様と報告し合うこの時間が一番楽しい。
「フローラの爪がいつも短く切り揃えられているのはヴィオラを弾くからだったんだね」
そう言われてドキリとする。長い爪は嫌いだ。自分のも、他人のも。
私が実家を出るきっかけとなったのは、継母の暴力だった。叩かれたり、髪を引っ張られたりは異母弟が生まれてからは日常茶飯事だった。
──ある日、四歳になった異母弟はいよいよ活発で、私は彼に会うことは許されていなかったけれど、成長は遠くから眺めるだけでも見て取れた。
屋敷の中、唯一自分と同じ深緑の瞳を持つ私に興味を持ったのだろう。乳母や従者の目を掻い潜って会いに来たのだ。可愛らしい少年だった。
『お姉ちゃん遊ぼう!』
『ごめんね、遊べないの』
『遊んで!』
彼にとっては年上の女の子はみんなお姉ちゃんなのだろうけれど、そう呼ばれて嬉しかった。遊んで、と言い続けるしつこさはまさに四歳児でとても可愛らしい。
『何してるの!!』
継母の声が聞こえて逃げなきゃ、と思った次の瞬間には髪の毛を思い切り掴まれていた。なにか言っていたけれど恐怖で頭には入ってこない。
視界に焼き付いたのは、やけに長く鋭利な爪が顔に迫ってくる光景だった。
泣き叫ぶ異母弟の声が頭にこだまする。
恐怖が記憶を支配していたのだろう。目元にできた青あざはひどく目立ったけれど、引っ掻かれた傷跡はそれほど深くなかった。
異母弟の泣き叫ぶ姿が、母を失ったときの自分と重なった。このままではいけない。それで私は実家を出ることにした。
もう何年も思い出すこともなかった記憶。
改めて自分の手を見れば、長年短く切り続けた爪はひどく不格好だ。血が出るギリギリまで、短く、短く、傷つかないように、傷つけないように、短く──
ライナス様にその手をまじまじと見られて心が早鐘を打つ。醜い手を見られたくない。
──次の瞬間、指先にライナス様の唇が触れていた。
喜びで胸が震える。ライナス様はいつだって私を助けて、許して、肯定してくれる。
いつも欲しい言葉をくれる。優しい口づけをくれる。だから私は彼に流されていく。それを私自身が願っているから。
頬に触れたライナス様の唇は乾いていて心地良い。全身、どこもかしこも触れ合えたら、どれだけ心地良いだろう。唇の端を啄まれて、そのまま受け入れてしまう。
触れているのは唇と腕だけなのに、今確かにライナス様にすべてを委ねていると感じる。
ハッとした。完全にライナス様のペースだ。この関係性は不健全だ、と思ったさっきまでの私はどこに行ったのだ。
ふれあいの羞恥と、情けなさとで意識が飛びそうになる。
ライナス様が唇を離して私に向き直る。次の瞬間がばりと抱きしめられた。総身が震えるのを宥めるように回された腕が上下に動き、指先が脇を掠める。初めて確かな意思を持って身体を触れられた気がする。
──これ以上は戻れなくなる……!
「ライナス様……練習のためとはいえ、これ以上は……」
いくら練習でもこれ以上はただのいい思い出になんて出来なくなる。
「フローラごめん!急ぎすぎたね」
ライナス様は思ったよりあっさりと、練習であることを否定しなかった。
「私に触れられるの、嫌だった?」
残酷なことを聞く。媚薬を盛るくらいなんだから、嫌なわけないのに。
「フローラは私に触れたいと思ってくれて、いないのか?」
呆然とする。
──ライナス様が触れられる練習も必要、ということ?
女嫌いの原因が何かは存じ上げないけれど、ライナス様は女性に触れることよりも、触れられることに嫌悪感を持っているのだろうか。
「じゃあ、私から触れるのはしばらくお預けにするよ。フローラから触れて欲しい。嫌ならもちろん触れなくても良い」
「……承知しました」
残酷な提案に引きつった声が出た。
これ以上は本当に無理だ。早く、侯爵家を出て、ライナス様から離れよう。この優しい人を嫌いになりたくない。誰も恨みたくない。
◇ ◇ ◇
「フローラ、君に荷物だ」
その日からライナス様の過剰なふれあいは無くなった。座るときは寄り添って座るし、相変わらず頭を撫でられるけれど。
「招待状……ミリアーナ殿下のご成婚祝いですね」
「エスコートはもちろん僕だ」
「えっと、それは……」
「アルフレッド殿下からもフローラと連れ立って来い、って言われている」
固まってしまった。次期侯爵様が行き遅れた子爵令嬢なんかをエスコートしたら、まだまだ結婚するつもりはありません、と言っているようなものだ。せっかく女嫌いを克服しても意味がない。
「ライナス様はそれで宜しいのですか?」
「もちろん」
あっさりと言うライナス様にこの方は王太子殿下の言うことを素直に聞き過ぎではないかと、自己犠牲が過ぎるのではないかと詰め寄りたくなる。勢い余って二の腕を掴んで揺さぶっていた。
「あ、フローラから触ってくれた」
にこにこしている。触ってくれた、とはどういうことだろう。腕から徐々に慣れていきたい、ということだろうか。
「それから、アルゼィラン伯爵からヴィオラが届いてたよ」
「へ?」
荷物を開けてみれば、それはアルゼィラン伯爵家秘蔵、伝説の名工ギロークのヴィオラだった。
──フローラが自分の人生の道筋を定めた、と思ったらおじいちゃんがこのヴィオラをプレゼントしよう。
子どもの頃、そうお祖父様が約束してくれたのだ。
「さすがアルゼィラン伯爵だね。現存は二十体だったか……ヴィオラを再開したお祝いかな?」
「まだ祖父にはレッスンに通い始めたことは伝えていなかったんですが」
「あ、私が伝えたよ。まめに手紙で報告する約束だったからね」
王太子殿下に言われるがままなのはどうかと思うけれど、ライナス様はやっぱり優しい。
「お気遣いありがとうございます」
「いつか演奏を聴かせて欲しいな」
「はい。先生の許可が降りたら」
「あはは厳しそうな先生だからな〜まだ先かな?」
「まだまだ先です」
まだまだ私が持つには相応しくないヴィオラだ。でも、子どもの頃から憧れていたこのヴィオラと一緒なら一人でも生きていける気がした。
夜会が終わったらオーノック侯爵家を辞そう。ライナス様との素敵な思い出を持って、私自身の人生を生きていこう。