16.夫婦になる練習sideライナス
『お前、ちゃんとフローラ君に気持ちを伝えてるのか?』
歌劇場にフローラとふたりで足を運んだ日、禁止薬物の件で進展があったとアルフレッド殿下に呼ばれて王宮に向かった。そしてアルフレッド殿下が珍しく真剣な表情でそう尋ねた。
──それにしても、今日のフローラの美しさは素晴らしかった。
先日のふわふわとした若草色のドレスも可愛らしかったが、きらびやかな会場、深紅の絨毯の上に立つフローラは格別だった。すとんと身体に沿うように落ちる、いつもより少し襟元の開いたベージュのドレスは繊細なレースが全面に施され、儚げなフローラが身に纏えば、触れると割れてしまうガラス細工のようだった。
舞台を観るフローラは楽しげにころころと表情を変えて、百面相である。
──アルゼィラン伯爵家は芸術に造詣の深い一家だ。フローラもその血を受け継いだのだろう。私たちの子どもも感受性豊かな子に育って欲しい──などと考えながら、それは素晴らしい時間を過ごした。
さぁ、これから感想を述べ合いながら、邸に帰って二人きりのひとときだ。と意気込んでいたらお邪魔虫の登場である。
挙げ句、馬車の手配をと貴賓席から行って戻れば、お邪魔虫を前にフローラが涙目だった。何か傷つくようなことを言われたのか。それとも事件のことでショックな報告があったのか?!
王宮に着いてアルフレッド殿下に問いただそうとして、先の言葉である。
『お前、ちゃんとフローラ君に気持ちを伝えてるのか?』
──つまりだ、フローラを泣かせた原因は私。
カールソン子爵家へフローラを迎えに行ってから今日まで、言葉と行動でフローラへの愛を示してきたつもりだった。
だが、女々しくも私ははっきりと「好きだ」と言ったことはなかった。
禁止薬物の事件の進捗も気も漫ろに聞きながら、反省した。
一刻も早くフローラに、好き、と言わなければ……!
それから数日が経った。私は内心焦っていた。好きな人に、好き、と伝えるのがこうも難しいことだとは思わなかった。
愛しさが溢れて手を握ったり頬に触れたり自然と体は動くのに、口は動いてくれなかった。頭脳労働も苦手ではなかったが、しばしばアルフレッド殿下に脳筋!と罵られるのはこういうことだったのだな、と納得してしまう。
「フローラ、さぁこれも食べて?」
最近の私の楽しみはフローラに手ずから軽食を食べさせることだ。恥ずかしそうにはするけれど、少し嬉しそうでもあって安堵する。
「ライナス様、もうお腹一杯です」
「こんなに薄いお腹でもういっぱいなの?」
そっとお腹に手を当てる。かわいい顔で睨まれたが、かわいい。これは一緒に暮らしはじめてからの発見だが、会話の流れに合わせて触れれば、恥ずかしくても決してフローラは拒絶しないのだ。
家から出ず、来客も落ち着いたこの頃はコルセットの必要ない、最近流行りだという細身のドレスを用意させている。どこを触れてもフローラの体温を感じられて、大変好ましい流行だ。
「今日のドレスも良く似合っている。きれいだ」
「ライナス様、どうかこれ以上衣装は増やさないで下さい」
「つれないことを言わないでくれ。母なんて社交嫌いなのに衣装持ちなんだ。フローラは私に見せる、という目的があるから良いだろう?」
フローラはまだ貴族婦人の生活様式に慣れないのだろう。何をするにも遠慮がちだ。
──そうだ、愛されているという実感を持つことができれば、もっと甘えて貰えるかもしれない。
「好きだよ、フローラ」
フローラが私に甘えてくる未来を想像すれば自然と言葉が出た。
頬を撫でながら伝えると、照れたような困ったようなかわいい顔をする。日々、私の愛を実感してくれれば良いと思う。
◇ ◇ ◇
まだまだ甘えて貰うには時間が掛かるようだ。
先日、母から提案があってヴィオラを習い始めることになったフローラだったが、教師への授業料を自分で払うと言い出した。律儀なところもかわいい。シルクという名の演奏家は元は兄弟弟子で宮中楽団の所属だという。宮中楽団の奏者なら楽団への寄付金の額に応じて、授業料が調整されるはずだ。急ぎ手配しよう。
授業は王宮の楽団室だが、ヴィオラの先生とは言え男と二人きりにさせるのは不安だとニーナを連れさせた。
初めてのレッスンの日、私が王宮から戻ってもフローラがまだ帰宅していない。やはり外で習い事をさせるのは失敗だったかな、と思ったところでフローラが帰ってきた。
階段を降りると、紺地のドレスは襟元は首まで、袖は手首までレースで覆われたかっちりとしたドレスを着ていた。今日はニーナの見立てで、しっかりと私の考えを汲んでくれている。
「おかえり、フローラ」
「ただいま帰りました。ライナス様」
前言撤回、出掛けているのも良いかもしれない。おかえり、よりもただいま、の方がより夫婦っぽい。
帰宅後は一日の出来事を報告をしながらお茶の時間、が定着してきた。オーノック侯爵家の家政に関することを中心にお茶会の話や王宮で見聞きしたことを話す。
──これはもう……夫婦ではないか?
「あの……ライナス様」
「ん?どうした?」
左手で茶器を持つフローラの手を握るために右隣にぴったりと寄り添って座る。
「あの……習い事を許可して頂いてありがとうございました」
「楽しかった?」
「はい、といっても今日は腕が鈍りすぎていてしばらく自主練習を命じられました」
「そうか、腕が磨かれるのを楽しみにしているよ」
良い気分転換になったのかもしれない、表情が明るい。毎日人と関わって仕事をしてきたフローラをいきなり閉じ込めたのは良くなかったかな、と反省する。
「王宮のお部屋でも音は鳴らせませんが弦を押さえる練習は続けていたのに、子どもの頃より下手になってるぞ、って言われてしまいました」
「厳しい先生だな。フローラの爪がいつも短く切り揃えられているのはヴィオラを弾くからだったんだね」
「あ……侍女の仕事も長いと危ないですから」
教師と親しげにやり取りをするフローラを想像して少しだけで嫉妬してしまう。まだまだ知らないことが多い。だがこれから伴侶となり、毎日こうして言葉を交わして、身も心も隅々まで互いに知り尽くして行くのだ。
フローラの手を取ってまじまじと見る。白くすらりとした手に短く整えられた薄桃色の爪。思わずその指先に唇を落とす。ちらりとフローラを見遣れば、白い頬を桃色に染めている。
我ながらフローラに対しては堪え性がないなぁ、と思いつつも、その頬に唇を寄せる。頬に寄せた唇は当然、求める先へ先へと向かうもので──
「……んっライナス」
様、を聞きたくなくて思いきり舌先を差し込む。夫婦になったら呼び捨てにしてもらえるかな。
フローラの両ひじを支えるように手を添える。私の二の腕に触れているフローラの指先に逃げようとする素振りはない。撫でられているような錯覚すらして──このまま続けてしまおうか……
私もそうだが、フローラだって異性とのこうした触れ合いの経験は無いはずだ。いや、ない、絶対にない。
これから夫婦になっていくのに、今から練習しても良いだろう。互いが互いだけと決めて、それも屋敷の中なのだから恥じるようなことはなにもない。
そっと唇を離す。頬も唇も赤くなって、潤んだ瞳で私を見つめている。指先が震えているのに気が付いてがばりと抱き締める。
頬に頬を寄せれば、フローラが胸を上下させながら懸命に呼吸しているのがわかる。まだその胸に触れるのは早いか──やはり今日はこのドレスで良かった。先日の胸元の開いたドレスだったら止まれた自信がない。でも少しだけ……腰に回した手で脇から掬うように指先でその柔らかさに触れようとした瞬間──
「ライナス様……練習のためとはいえ、これ以上は……」
慌ててフローラの顔を見ると、苦しそうな表情に潤んだ瞳は涙を流していた。
「フローラごめん!急ぎすぎたね」
俯くフローラにハンカチを差し出せば顔を覆うように涙を拭く。
「私に触れられるの、嫌だった?」
そう尋ねればぶんぶんと頭を振る。──良かった。
「フローラは私に触れたいと、思ってくれていないのか?」
おずおずと聞くとゆっくりと顔を上げた。キスより真っ赤になっている。
「じゃぁ私から触れるのはしばらくお預けにするよ。フローラから触れて欲しい。嫌ならもちろん触れなくても良い」
「……承知しました」
ちょっと無理な提案だったろうか。フローラは困惑した表情だ。だが、これもひとつの練習。私達は夫婦になっていくんだから。