14.優しい人
オーノック侯爵邸でお世話になり始めて一ヶ月が経った。初春の肌寒さは感じなくなり、ぽかぽか陽気ですっかり日も長い。
ライナス様の側仕えとしての仕事にも慣れてきた。もはや王宮の住人というライナス様のお父様オーノック侯爵とも恙無く挨拶をし、領地にいらっしゃるオーノック侯爵夫人とは王宮のお茶会で何度かお会いしたことがあって、今はお手紙でやり取りをしている。家毎の慣習もなまじ実家での経験がないために覚えやすい。
オーノック侯爵家の皆さんが優しすぎるのか、意外と私の順応力が高かったのか。只々快適な行儀見習い生活だ。
今思えばミリアーナ殿下の無茶振りに鍛えられていたおかげで、私は自分が思っているより成長していたようだ。
歌劇場でアルフレッド殿下にお会いし、オーノック侯爵家での生活が<ライナス様の女嫌い克服のため>の日々であるとはっきりわかって、どこか私は覚悟を決められたような気がする。
今までの私の人生には当たり前のように選択肢なんてなかった。でも、王太子殿下の仰ったしばらくが終われば、私は自由だ。
十四歳の私は継母への恐怖にうまく言い訳して実家を逃げ出し、そのまま今日まで来てしまった。恋も仕事も諦めて──あのお芝居の王女様のように自分から捨てる!とまでは言えないけれど──やり直してみても良いかもしれない。
ところで、そうは言ってみても私は相変わらずひどく困っている。
「フローラ、今日もきれいだ」
ほとんど毎日ライナス様とお茶をご一緒している。暖かくなれば外で過ごしたくなるのが人間の性分というものだ。
本日は晴天「いよいよ春の陽気だから、今日は庭へ行こう」と誘われライナス様とお庭でピクニックだ。天幕が張られ、木陰は風が通って心地良い。
椅子と机が一体になったピクニック用のテーブルは普通向かい合って座るんだけどな、と隣にぴったりと座るライナス様をしげしげと眺める。机とベンチが木板で繋がっているので、バランスをとるためにわざわざ反対側にはどうやって持ち上げたの?という大きさの石が置かれている。
「やっぱり夏着をもう少し買いたかったな。淡い色も涼しげなレースも良く似合う」
手は握ったまま身体を少し引いて、届いたばかりのドレスを眺めて寸評している。もちろん、買ってくださったのはライナス様だ。寸評と言っても、今のところ誉め言葉しか聞いていない。
一通り今日の装いを見終えれば、バスケットの中身を手早く並べる。側仕えとしての仕事をしたい私とで競うようにして並べるので、従者がいなくてもあっという間に準備が整う。
「少し痩せたかな?今度アルゼィラン伯爵に会ったらフローラを取り上げられてしまうかもしれない。ほら、食べて?」
いつの間にか私の好物ばかりが並ぶようになった。型に入ったままのアスピックはピクニックの定番で私の好物だ。冷たい金属の器が清涼感を感じて暖かい日にはちょうど良いお料理なんだけれど、器もスプーンも持たせては頂けない。
渋々と口を開く。ううん、渋々ではなくて本当はちょっと嬉しくてかなり恥ずかしいだけ。
一口、また一口と口に運ばれる。最初こそ抵抗したが無駄だったので諦めた。何より優しげに微笑むライナス様にスプーンを差し出されれば拒めない。
「美味しい?」
「おいしいです。……あの、楽しいですか?」
「すっごく」
にこにこしながら、貝の形をした型の淵に残った分はライナス様が食べてしまう。
「好きだよ、フローラ」
──そう、これがとっても困る。
微笑みながらスプーンを握ったままの拳で私の頬を撫でるライナス様。
アルフレッド殿下と歌劇場でお会いしてしばらく、ライナス様は私に「好きだ」と言うようになった。すごく、すごく困る。
困った顔で笑顔を返すことしかできない。けど、
──私も好きです。そう返したら困らせてしまうだろうか。
媚薬を盛るくらいなのだから、ライナス様は私がライナス様をお慕いしている、と認識していらっしゃるだろう。けれど、実際にはライナス様への思いを言葉でも行動でも伝えていない。好きだと、お慕いしていると一言伝えてしまいたい。そして自由になりたい。
けれどオーノック侯爵家での日々と現状が私をぐつぐつと砂糖で煮詰めるように甘やかして、踏ん切りがつかない。
媚薬を盛った犯人でも、女性に慣れるための練習台としてでもなく、ただフローラとしてライナス様に思いを伝えたい。
好きだと言われるたびに、どうしていいかわからなくなる。
◇ ◇ ◇
ライナス様の甘やかし具合は困ったものだ。禁止薬物の事件が小康状態になったとの事でお帰りが早くなって、今日は侯爵家の事務仕事をライナス様と一緒に行う。
「さぁフローラ、この調査書の説明をするから隣においで」
そう言って私を隣に座らせると一緒に作業を始める。神童と呼ばれた王太子殿下の側近を幼い頃から務めていただけあってライナス様とのこの時間はとても勉強になる。
「これが済んだら料理長力作のカヌレでお茶にしよう」
終わったらあれをしようこれをしようと提案なさる。次の予定があると俄然急いでしまうのは侍女の性というものである。
要するに、私は最近とってもとっても暇なのだ。
もしかしたら衣装部屋の整理だとか、目録の更新だとか、何か仕事があるかもとオーノック侯爵夫人にお手紙で相談した。あっさりと、<何か習い事を始めなさい>とご返事があった。確かに行儀見習いが滞在中あれこれ習い事をするのは一般的だけれど、それは十代の子どもたちの話だ。
けれど奥さまの提案を無視するわけにもいかず、ライナス様に相談すれば「ぜひ始めなよ」と返されてしまった。
一から何か始めるには歳が歳だし、と結局ヴィオラを習うことにした。晩餐会などでは演奏家を呼ぶけれど、お茶会や午餐会などでは主催者を中心に皆で演奏するのが模範的な貴族のあり方、とされている。
人前で弾けるくらい腕が戻れば、少しはオーノック侯爵家の役に立つかもしれない。
ヴィオラを習うのにオーノック侯爵家で先生を用意すると申し出て頂いたが、もちろん甘やかしが過ぎるので断った。
「フローラはもうオーノック家の人間なんだから遠慮しないで。それにフローラの給金と先生に払う授業料同じくらいだよ?」
「宮中楽団に知人がいるんです。元々同じ先生に教えて頂いていた兄弟弟子で、以前からまた始めるなら教える、と言ってくれてたんです。私でも払える授業料です」
ライナス様が最近少し伸びてきた黒髪をかきあげながら少し困った顔をする。
「旧知の人なら安心か。……わかった。但し行き帰りは侯爵家の馬車を使うこと。ニーナも連れて行くこと。この二つは必ず守って」
「承知致しました。……ライナス様、ありがとうございます」
「正直フローラがお茶会で演奏してくれたら助かる。うちは全員楽器の演奏はからっきしだからなぁ」
いつも欲しい言葉をくれるライナス様に、何か少しでも報いたい。私の役割を全うしよう。
あと少し、この甘い砂糖菓子の沼から抜け出せる勇気が欲しい。