第30話 壁ドンと顎クイ
青い泉亭という宿に到着したが、二階建てのアパートのような作りだった。建物の端にある入口から中に入るとカウンターがあり、その横には階段が上へと伸びていて、奥へ続く廊下の横にはドアが並ぶ間取りだ。
「すまない、三人で泊まれる部屋は空いてるだろうか」
「いらっしゃい、青い泉亭にようこそ。
三人部屋なら空いてるが、ベッドの数はどうする?」
「一つでお願いします!」
「子供も小さいし仲の良さそうな夫婦だから、二階の奥にある静かな部屋を貸してやろう」
「ありがとうございます、嬉しいです」
カウンターに座っている中年のおじさんの問いに真白が元気よく答えているが、自分たちが兄妹だといちいち説明するのも面倒だし、もう夫婦でもいいかと思い始めている。少し危険な兆候かもしれないが、気をしっかり持ってこれまでと同じ生活を続けていこう。ライムを抱き上げた腕とは反対側に当たる、まろやかな感触を意識しながら心に誓う。
「ほとんど利用する客はいないんだが、階段の横にある小さな部屋が厨房になってる、使いたい時は俺に言ってくれ」
「ホントですか!? ぜひ使わせてください」
「ただし場所を貸すだけだから、燃料や道具は自分たちで用意してもらうが、構わないか?」
「はい、それで十分です、よろしくお願いします」
マラクスさんがこの宿を勧めてくれた理由は、この設備のこともあったんだろう。流石にしばらく行動を共にしただけあって、俺たちに最適なところを紹介してくれた。抱き上げているライムからも嬉しそうな気持ちが伝わってきているし、真白もとても喜んでいる。もちろん俺も、妹の料理が食べられるのは嬉しい。
◇◆◇
部屋に入ると大きなベッドが一つと広めの机が置いてあり、クローゼットや鍵のかけられる貴重品入れがあるのもアージンの宿と同じだ。部屋の隅にある壁で囲まれた部分は、体を拭いたり洗ったりする場所だろう。
「ベッドすごく大きいね」
「前の宿では二人部屋を使わせてもらってたけど、三人部屋だとこんなに広いんだ」
「ベッドも机も、俺たちの体格だと四人で使えそうだな」
「でも、マラクスさんが紹介してくれただけあって、とってもいい宿だね」
「かーさんのご飯がたべられるのうれしい」
「部屋やベッドもきれいだし、厨房を貸してもらえるのは驚いたよ」
「ここでも料理が作れるのは楽しみだなぁ……」
「とーさん、お昼はどうするの?」
「この街も見て回りたいし、料理を作るならどこか広い場所で小屋を出して、荷物を整理しないとダメだから、昼は屋台か食堂に行ってみようと思ってる」
「この街の料理も知りたいし、それがいいね」
旅の途中は毎日食材の提供を受けたので、余っている材料や調理道具をひとまとめにして、厨房で取り出して使えるように整理しないといけない。お昼を食べた後は街を見学がてら適当な場所を見つけて、その作業をやってしまおう。
「ライム、お肉もさがしに行きたい」
「あれはすごく美味しかったから、俺も賛成だ」
「かなり高級そうなお肉だったけど、この世界だとどれくらいするのかな」
「気軽に買えない値段でも、何かの記念日やお祝いみたいな時に、奮発するのはアリじゃないか?」
「お兄ちゃんに壁ドンされた記念とか、顎クイされた記念とかいっぱい作ろうね」
「かーさん、“かべどん”ってなに?」
「ライムちゃんにやってあげるから、靴を脱いでベッドに上がって、壁がある方の端っこに立ってくれる?」
「これでいい?」
「それでいいよ。
……じゃぁ、やるね」
真白はライムと一緒にベッドに上がり、膝立ちで近づいていくと壁に片手をついて顔をじっと見つめる。
「ライム、オレのものになれ」
「ライムはかーさんの子供だよ?」
「あ、うん、そうだね、もちろんだよ」
「それが“かべどん”なんだ、じゃぁ“あごくい”は?」
真白は壁ドンの姿勢のままライムの顎に指を添え、そのままクイッと上を向かせる。
「ライム、愛してるよ」
「ライムもかーさん大好き!」
「私も大好きだよ、ライムちゃん」
真白はそのままライムを抱きしめて頬ずりをしだしたが、まだ幼い子供に高度な愛情表現は通じなかったみたいだ。しかし、こうして純粋無垢に受け取られている光景を見ると、ちょっといたたまれない気持ちになる。
「記念日はともかく、依頼もいっぱい頑張って、美味しいお肉を買えるようにしようね」
「ライムもお手伝いがんばる!」
「お肉は近くで作ってるって言ってたから、安くて美味しいのも沢山あるだろうし、色々挑戦してみるよ」
真白も話題の軌道修正を始めたので、ちょっと恥ずかしかったんだろう。まぁ自分で蒔いた種だし、俺に変な期待をするのは程々にして欲しい。
「さっきの“かべどん”と“あごくい”、とーさんにもやってほしい」
「父さんがやっても、さっきと変わらないぞ?」
「そんなことないよ、とーさんは男の人だからきっと違うよ」
「父さんにあの行為は難易度が高すぎるんだが……」
「ねぇ、ダメ?」
ライムがこちらを伺うようにお願いしてくるが、そんな顔を見せられたら拒否するという選択肢は、時空の彼方に消滅する。流れ弾にあたってしまった気分だが、可愛い娘のためなら高難度ミッションだってやり遂げてみせる。
「あっ、お兄ちゃん、私にもやって欲しい」
どさくさに紛れて何を言い出すんだ、我が妹は……
◇◆◇
ライムを味方につけ、二人ががりで懇願された俺は結局押し負けて、真白にも壁ドンと顎クイをやる羽目になった。肩車したライムと俺の腕に掴まって歩く真白は上機嫌なので、必死に娘と妹だと言い聞かせた苦労も報われたかもしれない。
「私の夢が二ついっぺんに叶っちゃった」
「ライムもうれしかった」
「喜んでもらえたなら俺も恥ずかしい思いをしただけはあるが、もう二度とやらないからな」
「えー、そんなー、たまにやってよ、減るものじゃないんだし」
「俺の中の大事な何かが減っていく気がする。それに妹に迫る兄とか、世間的にダメだろ」
「ただのスキンシップなのに、お兄ちゃんは変な所で真面目だなぁ」
あれは普通のスキンシップとは違うと思うし、妹が一体どこに向かっていこうとしているのか、兄としてはちょっと心配だ。そんな俺も、妹に“お兄ちゃん”ではなく“龍青さん”と呼ばれた時に心拍数が上昇したが、絶対に知られないよう墓場まで持っていこう。
「かーさんは“うまれた時からリュウセイさんのものです”って言ってたけど、とーさんのことずっと好きだったの?」
「お母さんが赤ちゃんの頃、お兄ちゃんが近くに居ないと、ずっと泣いてたんだって」
「父さんもその時はまだ二歳だったからよく覚えてないが、寝る時もご飯の時もずっと一緒にいたらしい」
「それにお母さんが最初に覚えた言葉は“にーに”だったんだよ」
「それって、とーさんの呼び方?」
「“お兄ちゃん”と同じ意味だ」
「お母さんのお父さん、ライムちゃんから見たらお祖父ちゃんだね、その時かなり落ち込んだみたい」
真白は産まれた時から、俺が近くにいると夜泣きも一切しなかったらしい。一緒に寝る時もずっと俺の指を握ったままで、おっぱいを飲む時ですら離さなかったと聞いている。俺もその頃の記憶はおぼろげにしか無いが、二人でいると落ち着けたような感じがしていた。
それに真白が最初に話した言葉も俺の呼び方だったから、産まれた時からお兄ちゃん子だったのは間違いないだろう。
「ずっと仲良しだったんだね」
「産まれた時から、お兄ちゃんとは夫婦だったんだよ」
「俺の呼び方はずっとお兄ちゃんだけどな」
「さっき名前で呼んでみたけどすごく恥ずかしかったら、やっぱりお兄ちゃんって呼ぶほうがいいかな」
俺としても色々な意味で、名前呼びじゃない方が助かる。
◇◆◇
その日のお昼は屋台で気になったものを何個か購入して済ませ、街の外壁の近くに開けた場所があったので、そこに小屋や荷車を取り出して荷物の整理を開始した。
「この家があれば、宿屋じゃなくても生活していけそうな気がするよ」
「マラクスおにーちゃんが、それはやめた方がいいって言ってたね」
「街道ならともかく、街の中や周囲の土地を勝手に専有したら、怒られるそうだ」
「それに行った先の経済に貢献するのも冒険者の務めだっけ?」
「魔物を倒して素材を売ったり依頼を達成して報酬を得たり、そうして手に入れたお金を街で使わないと経済が回らないからな」
「ライムにはむずかしくて良くわからなかったけど、お金をいっぱい使うといいの?」
「買い物をして美味しいものを食べたり、宿屋に泊まってふかふかのベッドで寝たら大丈夫だ」
「それならライムにもできる」
中には野宿したり、狩った動物や森で採ったもので自給自足に近い生活をしている人もいるみたいだが、今の俺たちならそれをする必要はない。
「いずれどこかの街で家を買ったりすると、そこで税金も払っていかないといけないし、自分たちのできる範囲で貢献していけばいいだろう」
「その時は三人で食堂やろうね」
「ライム、かんばんむすめになる」
旅に出たその日にやっていたあの設定は、ずっと生きてるんだな。まぁ、自分たちの家や店を持つことは、将来考えてみてもいいと思ってる。ライムの接客と真白の料理があれば、お店が繁盛するのは確実だ。
俺の出番が無さそうなのが少し寂しいが……
「お兄ちゃんはライムちゃんの妹か弟づくりに協力してくれたら大丈夫だよ」
俺の考えを読まれてしまったのか?
……真白、恐ろしい子。
◇◆◇
荷物の整理も終えて街で買い物をしながら宿屋に戻ったが、食肉販売店に寄って値段を確かめてみたら、旅の途中でもらったお肉はかなりの高級品だった。あんなお肉を持って旅をする目的は何だったんだろう、もう会うことは無いかもしれないが、色々と謎な男女二人組のパーティーだ。
隠密たち、ちょっと張り切りすぎでしたね(笑)




