五七 平穏な日々
不可解な点はいくつか残っていたが、私は全てを忘れることに努めた。
時間というものは誰にでも平等だ。
私は騙されたという事実を、次第に忘れることができた。
幸いにも、西上に怪我を負わせたことで警察に追われることもなく、私は妻と息子の三人で平穏な日々を過ごすことができていた。
仕事も家庭も順調だった。そうした日々が、私の心を癒していった。
私は確かに騙された。もう少しで、犯罪者として扱われるところだった。しかし、結局そうはならなかった。
そして、母のように金銭を騙し取られるようなこともなかった。
受け取りはしなかったが、金を与えられたのだった。
実害はなかったのだ。
少し嫌な思いをしただけだと考えれば、私の心の傷は深いものではなかった。
そして、一年ほどの時間が経過した。
裕樹も一回り大きくなり、最近は自転車を補助輪なしで走らせることもできるようになった。
野中先輩はあの後しばらくして会社を辞めてしまったが、私の営業成績は順風満帆である。次の四月には、係長に昇進することが内定していた。
私は今日も、妻と息子に見送られて会社へと向かう。
だが、駅に向かい歩く私の前に、見覚えのある少女が立っていた。
私はそれが弥生であると、直ぐに思い出すことができなかった。
暗い過去は、無理やりに記憶の奥底へと封じ込めていたからだ。
しかし、まっすぐに私を捉えた二つの黒い瞳が、私の記憶をこじ開けていた。
彼女は荒んでいた。髪の毛は梳かれた様子もなく乱れており、肌も荒れている。暗い瞳の下には、墨を塗ったように黒いクマができており、頬もこけていた。着ている物も粗末なジャージで、何日も洗っていないように見えた。彼女は浮浪者一歩手前のようだった。
私は彼女の前に立ち竦む。様変わりした彼女に対して、何を語りかけてよいのか分からない。だが、彼女が私を待っていたことだけははっきりとしている。彼女は私を凝視し続けていたからだ。
「これを、読んでください」
震える手で、弥生はひしゃげた封筒を差し出してきた。
私が受け取ることを躊躇していると、彼女はスーツのポケットに、無理やり封筒を捻じ込んだ。
そして、さよならも言わずに去ってゆく。
結局私は、彼女に一言も声を発することができなかった。