四六 パパヤメテ
そのテナントビルの入り口正面に小さなエレベーターが見えたが、私は益本の指示通り、階段を使い上へと上がる。エレベーター内で他の人間に目撃されることを避けるためだろう。
三階まで上がると、四号室は直ぐに見つかった。光が漏れている部屋は、他には無かったからだ。304という部屋番号の他には、表札も看板も見えなかった。
ノックもせずに、その扉を開く。
八畳程度の、狭い部屋だった。家具らしいものは窓に沿って置かれた安物の長テーブルが一つと、壊れかけのパイプ椅子が三脚、そして益本が言っていた電気ポットが乗る小机があるのみだ。
パイプ椅子の一つに、窓に向い男が一人座っている。
「キミは?」
私が部屋に入ると、男が首だけをこちらへ向けた。先日研究室で見た、写真の男がそこにいた。西上に間違いなかった。パイプ椅子からこぼれ落ちそうな巨大な尻をしている。
「ああ、新人のバイトさんだね。もう少し、選ぶの待ってくれ」
西上は勝手に私の身分を決め、油で光った眼鏡を親指で押し上げて、再びファイルに目を落とした。
右足が小刻みに動いており、その反動でパイプ椅子が軋んだ音を立てている。
ここまでは益本の指示通りだ。
私は電気ポットのある小机へと向かう。急須と紙コップも置かれている。袋入りのティーバッグも用意されていた。
真似だけで良いと言われいてたが、そんな器用なことは私にはできなかった。急須にティーバックを放り込み、湯を注ぐ。そして、小机の下に立てかけられていた金属バットも確認した。そのバットだけ真新しく、この部屋の中の雰囲気にそぐわない輝きを発していた。
「ねえ、お勧めはどれだい?」
唐突に質問を浴びせられた私の体は、ビクリと震えた。
「お勧めだよお勧め。やっぱり新しいのがいいよなあ?」
振り向くと、西上はこちらを見ず、ファイルを覗き込んだまま問いかけていた。
「……新人なもので、わかりません」
「そうかあ、結局オレの好みだもんなあ」
やはり、西上はこちらを見なかった。
今か。今がその機会なのか。
私の心臓は激しく鼓動する。目の前が暗くなるほど、こめかみが脈打っていた。
音を立てないように、金属バットを机の下から引っ張り出す。それを背中に隠しながら、私は西上に近付いた。
西上はまだファイルに夢中だ。
もう一歩近づく。西上がファイルのページを一枚めくった。
まだ西上は気付かない。今から殺されることに、全く気付かない。
更に一歩近づいた。もう、バットがその後頭部に届く距離だった。
バットを持つ手に汗が浮かぶ。握りを変え、振り下ろす構えをとる。
その時だった。聡子と裕樹の顔が脳裏に浮かんだ。『パパヤメテ』という、裕樹の声も聞こえた。
幻覚だ。幻聴だ。私のこの一振りに、人類の未来がかかっているのだ。やめるわけにはいかない。ここでやめれば、裕樹が死んでしまうのだ。
私は振りかぶる。あとは、思いきりそのバットを脂肪でたるんだ後頭部へと叩きつけるだけだった。




