四十 先生、独身ですよ
文系の私は、生物学部の研究室には薬品の臭いが充満しているものと思い込んでいたが、予想に反しそこは無臭だった。資料は整理され、フラスコやビーカーといった器具も、見える場所には置かれていない。ただ唯一、ポツンと端の机に乗っている顕微鏡が、理系の雰囲気を醸していた。
こんなことをして何の意味があるのか、と自問しながら、私は西上に関する情報を探していた。しかし、棚や引き出しを探るような真似はできない。指紋を残したくはなかったからだ。扉を開けたときも、上着のそでを使っていた。
私はただその研究室を眺めまわしていただけだった。入口を振り返ると、扉の上に数枚の額が飾られている。すべて英文であり読み取れないが、西上が獲得したものだろうと推察された。
研究室の中央に並べられた学生たちの机を眺めていると、一枚の集合写真を見つけた。十名ほどの白衣の学生たちに囲まれて、中年の冴えない男が写っている。四十前のはずだが、前髪はかなり後退しており、歳よりは老けて見える。大きなレンズの丸い眼鏡が、膨らんだ顔に埋もれているようだ。かなりの肥満体といえるだろう。
学生たちは皆弾けるように笑っているにも関わらず、その中年男性だけが、一人不機嫌な顔を見せていた。この男が、おそらく西上なのだろう。
この写真以外に、西上に関する資料は見当たらなかった。探せばいくらでも出てきただろうが、それ以上こそ泥のような真似をするつもりはなかった。
私は研究室を出る。
二号館を離れる間際、先ほど研究室の前で出会った女学生を見つけた。恋人だろうと思われる青年と、楽しそうに立話に興じている。急いでると言っていた理由が、この彼氏との邂逅なのだろう。
私は辛抱強くその会話が終るのを待つ。どこぞのパスタが美味いだの、おしゃれなバーがあるだの、友達の親戚の別荘がでかいだの、中身のない会話が続いていた。
青年が去った瞬間に、私は女学生を捕まえた。女学生は露骨に迷惑そうな顔を見せたが、構わずこちらの質問をぶつけてやる。
「あの、西上先生のお子さんて、何歳くらいだったかな? 今度お土産でも持ってこようと思うんだけど」
「……先生、独身ですよ」
迷惑に不審感を加えて、女学生は私を睨む。
「あれ? 別の先生と間違えたかな?」
あからさまに不自然な言い訳を残し、私は逃げるようにキャンバスを去った。
知りたいことは、その短い会話で充分得られたのだ。