三 その一日
朝起きると、食卓には妻と息子の裕樹が、既に朝食をとっていた。
「おはよう」と私が声をかけると、裕樹はわざとそっぽを向く。その姿を見て、妻が笑いを噛み殺していた。
「裕樹、朝の挨拶くらいはしなさい」
私が叱責すると、裕樹は食べかけのトーストを放り出し、イスから降りて寝室へと逃げて行った。
ピシャリと閉じられたふすまの向こう側から、「パパなんて嫌いだ。ウソツキ」という声が聞こえる。
「あなたが出かけたら、ちゃんとご飯食べさせるから」
早く出てゆくように暗に妻に促される。私はやりきれない気持ちを抱えたまま、妻が差し出したトーストにかぶり付き、忙しく準備をして家を出た。
最寄りの駅で電車を待つ間、私は喉の渇きを覚え、朝のコーヒーを飲んでいないことに気がついた。最愛の息子に罵られたことで、朝のリズムが崩れていた。
ちょうと身近に自動販売機があった。私は小銭を投じ、缶コーヒーのボタンを押す。
しかし、その自販機はなんの反応も示さない。
小銭が認識されなかったのかと疑い、釣銭の場所を確認したが、そこにはなにもなかった。
確かに百円玉一枚と十円玉二枚を入れたはずだった。息子の態度で苛ついていたこともあり、私は自販機を拳で叩いた。思いのほか大きな音が響いたため、側に立っていた白髪の紳士に睨まれてしまった。
そこにタイミング悪く、電車がホームに入ってくる。私は缶コーヒーを諦め、電車に乗り込んだ。
電車で揺られている間、私は昨日の匿名の手紙を思い出していた。
はっきりとは思い出せなかったが、確か缶コーヒーが出てこないという文があった気がする。
まあ、そんな偶然もあるだろ。
会社で朝礼を済ませると、私は直ぐに大きな営業カバンを抱え、得意先の訪問を開始する。カバンの中にはオフィス家具メーカー各社の分厚いカタログが入っている。様々な法人を訪ね、買い替えや移転時のオフィス家具需要を開拓するのが私の仕事だった。
我が社の営業マンには、一日二十件の訪問をノルマとして課せられている。実際にそのノルマを真面目にこなしている営業担当はいない。私も要領よく、架空の訪問先を常時十件は確保している。訪問先の確認などはされない。また、文句を言われないだけの成績もあげていた。
朝ごはんをぞんざいにしたせいで、私は午前十一時には定食屋に入っていた。初めて入る店で、強面のオヤジが一人で包丁をふるっている。
私はそこでも昨日の手紙を思い出した。そう、確か蕎麦を食べると書いてあったはずだ。私はあえてうどん定食を注文した。
しかし、私の前に運ばれてきたのはざる蕎麦とかやくごはんだった。客は少ないのに、オヤジが聞き間違えたのだ。しかしオヤジは調理を済ませると、不機嫌そうに新聞を開いていた。なんだか文句を言い難い雰囲気であり、加えてその蕎麦はたまらなく良い香りを放っていた。
結局私は蕎麦を食べた。
午後はまじめに営業をし、くたくたになって会社に戻ったのは午後七時を回っていた。そこから日報を書き、見積書を二件書き上げ、二十五年ローンで買った中古マンションに帰ったのは十時をまわっていた。
マンションの入り口を通り抜ける瞬間、乾いた音が足元から響く。
皮靴の裏を見ると、ゴキブリがつぶれていた。