第五話 邂逅
突如うずくまった少年が、自分の身体をその両腕で抱え込みながら、何かに怯えるように小さく震えている。
先ほどまでは何の感情も宿していなかったはずのその瞳に、今は明確な恐怖の色が浮かんで見える。
この場で最大の脅威であったモンスターは既に滅んでいるし、ましてやエメルを恐れているようにも見えない。
何か、己が内なる鬼胎を、無理矢理に押さえつけようとしているかのようだ。
少年の態度の急変を見て走った動揺を隠したまま、エメルは警戒を解かずに問いかける。
「お前は、……何者だ?」
少年は答えない。
「そんな格好で、武器すら持たず、こんなところで何をしている」
少年は答えない。
エメルはそんな少年の表情から、少しでも情報を読み取ろうと、じっと観察を続ける。
何かをひどく恐れているような雰囲気は依然として変わらないが、こちらの言葉は届いているのだろう。
その顔を僅かに俯けたまま、視線を彷徨わせている。
何をどう説明して良いのか分からず、迷っているようにも見える。
自身が置かれている状況の把握すら、できていないようでもある。
今この少年にかけるにふさわしい言葉は何か。
込めていた力を抜き剣を下ろし、そして慎重に選び出す。
「……俺は、お前の力になれるか?」
その言葉を聞いた少年は、ようやく、しかしゆっくりと、怯えるように目線を上げる。
「僕……は、……」
少年が、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。
空に目をやれば、大分日も傾いて来ている。
かなりの時間話し込んでいたようだ。
エメルの体中に付着し、拭い切れなかったゴブリンリーダーの体液も、既に乾ききっている。
手には空になった、ライフ回復の為のポーションの容器。
彼程の冒険者でもそうやすやすとは買えない貴重な魔法薬ではあったが、この後拠点へと戻る間、さらなるモンスターに遭遇する可能性を少しでも考えれば、ケチってはいられない。
手慰みに持ち続けていたそれを腰に差し直し、エメルはつぶやく。
「異世界か……」
彼は本当のところ少年の話した内容を、どのように処理して良いか分からず困惑していた。
太古のこの世界には天界や魔界への扉が存在し、現にそれらの扉を探し求めている冒険者もいるとは聞く。
だが、少年の言う世界はそのようなものとも違うらしい。
モンスターが存在せず、人族がその繁栄を謳歌する世界。
完全にエメルの想像の範疇を超える話ではあるが、探りを入れれば入れる程、今までの少年の態度も相まって、全くのでたらめとは思えなくなっていた。
その上、この少年との会話は、なぜか少しの心地よさすら感じさせる。
今は遠く離れてしまったが、幼き日の自分によくなつき、ついてまわっていた弟を思い起こさせるような。
「異世界……みたいですね」
そう相づちを打った少年は、エメルとの長い問答の中で、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
異世界。
もしかすると、少年が草原に出現したときには、既に心のどこかでその予感は抱いていたのかもしれない。
そしてそれはモンスターと、それに対峙するスケイルアーマーに身を包んだ剣士を見た時には、ほぼ確信へと変わっていた。
エメルの話もまた、それを裏打ちするものばかりだ。
「つまりその、こんぴうたゲーム?だったか。この世界はお前たちの空想した世界にそっくりで、お前は気付いたらここにいた。その理由は全くの不明」
そうエメルが問う。
それにしても話を聞くのが上手い男だ。
少年はエメルに対してそんな思いを抱く。
正直、自分の世界のことを上手く伝えられているとは全く思えない。
このファンタジー風の世界には無いであろう概念を、説明する為の適切な表現が浮かばずしどろもどろになる少年を、上手く誘導し言葉のニュアンスを引き出してくれる。
この世界で最初に出会えたのが、この男で本当に良かった。
「はい。……まだ自分の目ではこの草原しか見ていませんが、あなたのお話を聞く限りでは」
少年は答える。
「しかもこちらに来た時には、なぜかとんでもない力を持っていた、と」
エメルはそう発した後、少し考えるような仕草を挟んで言葉を続ける。
「具体的にはどれくらいなんだ?俺が結構ライフを削っていたとは言え、あのゴブリンリーダーを一発で葬ったんだ。相当なものだと思うが」
さらなるエメルの問いかけに対し、少年は答えに窮した。
エメルのレベルはたった十六でしかないが、それでもこの世界の冒険者達の中では、トップクラスの実力者の一人なのだと言う。
そんな世界の住人に、自分の本当のレベル、百五などという数値を伝えてしまったら、それこそ本物の化け物だと思われないか。
長い問答の中で少しは打ち解け始めたと思っていたところなのに、その態度を急変させはしないだろうか。
訳が分からないだろう話を続ける少年を、理解してくれようとする男。
極めて不安定な状態に陥っている、その心の内まで汲み取るように。
そんな彼が、あのゴブリンリーダーに向けていたような、あるいはそれ以上の目を、自分へと向ける姿が脳裏に浮かぶ。
「まあ、何度も言ったが、言い難いことは言わなくても良いぞ」
そんな少年の心情を察したかのように、エメルは問を撤回した。
「そういえば、まだお互い名乗ってすらいなかったな。お前の世界の話が面白すぎてすっかり頭から抜けていたよ」
話を切り替えるようにエメルが言った。
そう言われると確かにそうだ。
実のところ少年は、広域探査の効果でエメルの名前を既に知ってはいたのだが、考えてみれば確かに、会話の流れとしては少し不自然でもあった。
少年もまた、エメルが話す世界に夢中になっていたようだ。
お互いから軽い笑いがこぼれる。
「俺はエメル。本当に今更だが、改めてよろしくな」
そう言うエメルの挨拶に、少年も自らの名を返した。
それに対しエメルは、異世界らしく変わった、だが悪くない響きの名だなという感想を抱いた。
「それともう一つ聞きたいことがあるんですが」
少年は、ついでとばかりに重大な質問を行う。
「この世界、なんて名前なんですか?」
それを聞くとエメルは、ああ、それも言い忘れていたなというような表情を作り、告げる。
「アルケランダだよ」
内心では既にそうだろうなと悟っていた少年は、特別に驚くことも無く、なるほど、とだけ返答した。
エメルがゴブリンリーダー達の躯から、その耳を刈り取っている。
なんでも、冒険者ギルドへの討伐証として提出するらしい。
その姿を眺めていた少年に、最後の一体の耳を切り取った、当のエメルから声がかかる。
「ここからしばらく行った先に、今回の探索で拠点として使っている小屋がある。いったんそこに向かおう。そこに俺の予備の装備があるから貸してやるよ」
これからどう行動するにせよ、今のままの少年の格好では第三者に遭遇した時、間違いなく奇異の目で見られる。
そう説明を加えつつ、エネルは提案してきた。
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
少年には、自らを異世界から来たと称する、得体の知れない自分に、エメルがここまで積極的に関わろうとしてくる理由が分からない。
「こうして話しててもお前が悪い奴には思えないってのもあるし、なよっとした年下の男がさっきまで晒してた泣き出しそうな面に、庇護欲を掻き立てられたってのもあるかも知れん」
だがそれ以前に、とエメルは前置きして続けた。
「お前は俺の命の恩人なんだよ。はっきり言ってあのままじゃ、確実に俺は死んでいた。お前にはどう見えてるか知らんが、これでもめちゃくちゃ感謝してるんだぜ?」
振り向き様に軽く手を上げながらそう言うと、エメルは付いて来いとばかりに歩き出した。