第十話 勇者
彼女が歴史にその名を現したのはいつのことか。
それを正確に知る者は、おそらくもはやこの地には存在しないだろう。
幾千年の昔。
今は失われし英雄たちが、この大陸を舞台にその覇を競っていたとされる、神話の時代。
人の域を超越したとも言われるS級冒険者達が、それでも人の身である限りは到底抗えようも無いモンスター。
そんな化け物達が闊歩する、未踏地域の深部。
そのような場所から、S級冒険者達が自らの命を賭して持ち帰る、神々の宝物としか思えないアイテムがある。
現代を生きる我々は、そのような時代が確かにあったことを、それらのアイテムを通じてしか知ることができない。
そんな時代。
数多の古文書に目を通した歴史家の中には、その当時から彼女がこの世界にあったと推測する者もいる。
歴史という大きな流れにおける頻度で言えば稀に、しかし、幾度となく未踏地域の再深部から溢れ出た災厄。
時には上位竜族に匹敵することすらあるその怪物たちは、例外無く人の世に対する脅威となった。
しかし現在に至るまで、人はその細やかな繁栄を失ってはいない。
理不尽な破壊者達に決して屈さず、力及ばずとも友を、愛する者達を守る為に、あらゆる手段を用いて抗おうとする人々は、いつの世にも存在する。
そのような者たちに、彼女は神代の武具を貸与し、この世界の不条理に抗う為の力を授けた。
そして、それらの武具に自らの勇気を乗せ、迫りくる脅威を打ち払った者達はやがて、勇者の称号を持って呼ばれるようになった。
彼女が自ら戦場に赴いたという記録は、ほとんど残されてはいない。
彼女自身が、人の世に影響を及ぼすことを嫌っているのかもしれない。
あるいは、人々が彼女に頼り切り、自ら未来を切り開く意思を失い堕落することを、恐れているのかもしれない。
彼女の真意を知ることは出来ない。
しかし、いずれにせよ。
人の世と共にあり続ける厳しくも優しき観測者。
それが、この大陸に生きる多くの者達が、彼女、白銀の魔女フレア=フランに対して抱く認識である。
あれから丸一日をかけて森林地帯から抜け出したハスク達一行は今、その左右をそびえ立つ崖に挟まれた、大峡谷を進んでいた。
足下まで一面岩盤に覆われた代わり映えの無い景色が、一同の時間感覚を奪って行く。
遥か上空には確かに太陽の存在を確認できるが、切り立つ岩壁によって作られた陰影が、不気味な雰囲気を醸し出している。
さらに幾許かの時間を重ねた後、いつでも矢を引けるようにその愛弓を構えつつ、スケイラが問いを発した。
「さっきから、急に周囲の魔力が高まって来てる気がするんだけど、これってかなりまずくないかしら?」
峡谷に入ってかなりの時間、モンスターが出現するどころか、大気中にほとんど魔力すら感じることが無かった。
その濃度が、ここにきて急激に上昇しはじめた気がするのだ。
「ああ、かなりやばい感じがするな」
同じくそのことに気付いたハスクが、その赤いショートソードを構えながら答える。
過去の冒険において、古城や迷宮の深部で遭遇したことがある、支配者級モンスターの出現に通じるような気配を感じる。
「おいおい、俺はお前達ほど感知能力が高く無いんだ。
あんまりびびらせるなよ」
慌ててその巨大なメイスを掲げ、シブラスが続く。
この二人がやばいという言葉を口にしたとき、その予測が外れたことは残念ながら過去に一度として無い。
「この感じ、精霊系のモンスターの出現時のものに似ているわね。
それも、火系統の」
そう冷静に状況の分析を始めたスケイラに対し、
「ああ、だがこの魔力量は異常だ。全力で後退する準備もしておけ」
と、ハスクが補足を追加する。
はじめは漠然としたものだった魔力が、ある一定の流れへと変化する。
やがてその魔力の流れは、赤を帯びた光の粒子へと変わり、ハスク達の前方で一カ所に集まり始める。
それに伴いながら、そこに集中する魔力量が、爆発的に増大して行くのが分かる。
そうして集約した粒子が、眩いばかりにその輝きを強めた瞬間、それはゴウッという音とともに一気に燃え上がった。
「ゴハァァアアアァァァァァ!!」
耳をつんざくばかりの咆哮とともに、火の粉を撒き散らしながらそこに出現したのは、灼熱の炎の体を持った巨人。
撒き散らされるその莫大な熱量が、ハスク達の肌をチリチリと焦がす。
その両足が接地した岩盤が、あまりの高熱に赤く変色して行く。
見上げるような巨体は、トロルすらも幾周りか上回る。
一際明るく輝くその双眸が、明確な敵意を持ってハスク達を見つめていた。
周囲の温度が急激に上昇する中、ハスクはすぐさま「対象探査」を発動する。
同時にスケイラも、「対象解析」のスキルを発動させる。
対象探査がスタミナをコストに対象の情報を得るアクティブ物理スキルであるのに対し、対象解析はその魔法版、マナをコストに対象の情報を得るアクティブ魔法スキルだ。
人族であるハスクに対し、マナ値の絶対量が多いエルフであるスケイラは、こちらのスキルを習得している。
「くっ、名前とレベルしか分からん!そっちはどうだ!」
熱風に晒され吹き出る汗を散らしながら、ハスクがそう叫ぶ。
「駄目っ!こっちも分かったのは名前とレベルだけよ。
でも、これは……」
何か、信じられないものを見たと言った表情で答えるスケイラに対し、
「ああ……。
レベル三十のイフリート。
伝説に聞く炎の魔人だな」
ハスクは苦虫を噛み潰すように、言葉を絞り出した。
イフリート。
それは、S級冒険者であるスケイラですらお伽噺の中でしか聞いたことが無いような、神話の時代の怪物。
ステータスは読み取れずとも、その尋常ならざる力が本能で感じ取れる。
かつて遭遇したあらゆるモンスターを凌ぐであろうこの神代の存在に、果たして自分たちの勝機はあるのだろうか。
だが、左右は切り立った崖に挟まれ、退路は後方のみ。
相手の移動速度がこちらを上回ることは明白。
戦って勝つ以外に活路は無い。
幾多の冒険で研ぎすまされた直感が、瞬時に自分たちが取るべき道を選び出す。
激戦への決意を固めた三人は、眼前に立ち塞がる炎の巨人を睨み返した。




