第三話『大きな患者さん』
川自体には何度も来たことがあるが、川に沿って川上に向かうというのは初めての経験だった。川が普通の状態だったなら、これも楽しいことだったに違いない。
しかし、今は川の水が減っているせいで、所々にできた水たまりのような場所に魚が閉じ込められ、陸に打ち上げられてもがいている魚も居た。何とも痛々しい光景だったが、その魚達を鳥や動物が攫って行くから、全く無駄になっているわけでもない。
とにかく、早く原因を突き止めなくてはならない。少女は岩から岩に飛び移りながら先を急ぐ。
* * *
「これは……」
一時間も川を上ると、川の水が少なくなった原因を見つけた。
古い大木が川に倒れ込み、そこに小石や小枝などがたまって川をせき止めていたのだ。止められた水は少しずつたまってきており、川の水位が上がり続けている。
「あぶないな……」
もしこの状況で雨が降ったら……いや、雨が降らなくても、この天然のダムにこれ以上水がたまった状態で決壊したらかなりのエネルギーになる。
木々をなぎ倒し、そこに住む動物や虫達を洗い流す。魚たちだって、それだけの勢いの水に流されれば、たくさん死んでしまうはずだ。そんなことは、森の医者として許すわけにはいかない。
少女は鞄をどさっと置き、乱暴に鞄の中を漁る。そしてお目当ての物を見つけて取り出した。
「じゃーん、この斧を使って木を切ってしまいましょう」
鞄の中から取り出したのは、組み立て式の斧だった。しかし、作りはしっかりしており、重さもかなりある。少女はそれを四六時中持ち歩き、歌いながら軽々しく振りまわしていたという訳だ。
「……ふん!」
少女は思いっきり木に向かって斧を振り下ろした。大きな音と共に、木の破片が飛び散る。
「よし、切れ味も十分。始めますか」
もはや言うまでもないが、少女は身体能力が高い。鷹は少女のことを猿のようだといったが、その気になれば、ムササビのように木から木に飛び移ることだってできる。
ちなみに、斧は護身用の武器ではなく、治療道具として鞄につめている。森の医者。森の管理人として少女は行動している。森自体を治療することも必要だというなら、斧やスコップなどという道具も持っていた方がいい。少女の鞄の中は、きっと色んな物で溢れているのだろう。
「えっさ、ほいさ」
少女はまず大木に引っ掛かってダムを構成している小枝などをどかし始める。これらのものが邪魔で、大木を切ることがまだできないのだ。
それに、少し水の小道を作って、水を逃がしてやらなければならない。大木を切るには時間がかかる。その間に水位が限界近くまで上がってしまえば、大木を切ったとしても、天然のダムが決壊したのと同じことになる。
そうならないために、比較的安全な今の状況で、水抜きをしなければならない。小道を作る場所がまずければ、作業をしている途中でそこからダムが壊れ、少女自身が巻き込まれてしまう可能性もある。慎重に作業をしなければ……。
「あー、でも今日は晴れていて良かった。これで雨が降ったらもっと大変な作業に……」
「何してるんだ馬鹿ッ!」
少女が作業をしていると、後ろから誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「あら、イタチさん。こんにちは」
声をかけてきたのは今朝助けたイタチだった。怪我はもうすっかり良くなったと見えて、こっちに向かって走ってくる。
「こんにちはじゃないだろ森医者! 早くそこから離れろ!」
イタチは少女のすぐ近くまで来て顔を見上げる。声はひどく焦っていて、慌てているようだった。
「心配してくれているの? でも大丈夫よ。今日は天気もいいし、気を付けて作業をしているから危ないことなんて……」
「何言ってんだ! 今日はこれから雨が降るんだよッ!」
少女はポカンとして空を見上げた。……完全に快晴だ、森の中に居るから空は狭いが、雲ひとつない気持ちのいい空だ。
「今度は幻覚障害なの? 川の治療が終わったらすぐにお薬を出しますので……」
そう言って少女は作業を再開する。イタチは地団太を踏みながら訴える。
「動物の勘だよ! 今日はこの後雨が降る。……見ろ、あっちの空にうっすら雲が見えるだろ?」
少女は言われて川上の方向を見た。すると、確かに黒い雲の様な物がずいぶん遠くに見えた。
「あんなに遠いのよ? すぐには降らな……」
「川上で降れば水かさが増えるだろうが! それにこの後は風も吹く。あの雲が一気にこっちに流れてくるぞ」
そうなのかもしれない。気のせいか、さっきより風が荒くなってきたようにも感じられる。
「……とりあえず頑張りましょう」
しかし、少女は作業をやめることはしなかった。少し、作業のスピードをあげたようだったが。
「何してんだ、早く……」
「患者を放っておいて逃げることなどできません」
少女はぴしゃりと言って作業を続ける。イタチは少しキョトンとしたが、また訴える。
「患者? 患者なんてどこに居るんだよ?」
「ここに」
そう言って少女は、作業を続けながら川を指さす。
「あ……アホか、川が患者だって? この川は病気か? 怪我でもしてるのか? そんなことないんだよ! ちょっと木が邪魔してせき止められてるだけじゃないか。決壊すれば川の形だって変わるだろうよ。だがな、変わるだけだ。死んだりしないんだよ。そもそも、川自体は生きてすらいない。それを治療だと? 馬鹿なこと言うなッ! 川の形が変わるのは自然の摂理だ」
「この川の決壊によって死ぬ者たちにも同じことを言うのね?」
少女は突然鋭い声を出す。
「この川の水位が上がった状態で決壊すれば、ひどい被害になる。川下で水を飲んでいる動物達は流されるし、川の近くに巣がある動物や虫だって死ぬ。普段川の中に住んでる魚たちだって、いきなり激しい流れが来れば、逆らうことができずに岩にぶつかって死んでしまうわ。動物達だけじゃない。植物達だってたくさん死んでしまう。あそこにある木も、あの花も、ここにある草だって、水に流されて死んでしまうわ。あなたはそれでも、摂理だから諦めろとそう言うのね?」
「そ……そうだよ。それが自然だろ?」
イタチは言いにくそうにそう返事をする。
「そう、あなた達はそれでいいの。森の中に住む自然の生き物なのだから。でも私達人間は違う。『人工』という言葉があるわ。人間が自然を作り変えること、人間が自然を支配することを言う。住みにくければ作り変える。都合が悪ければ支配する。エゴでも何でも、気に食わなければ、気に入るように行動する。それが人間なの。自然とは別の存在なの」
少女はイタチを見た。その表情は冷静な口調とは違って穏やかだった。
「私は森の医者。患者がここに居るのに、逃げ出すわけにはいかない」
「で、でも……そのせいであんたが死んだら何にもならないだろ? 危険なことをすることなんてない」
「あら、医者は常に危険と隣り合わせに居るものでしょ?」
新型の流行病によって人々が苦しんでいる時、一番にそれに立ち向かうのは医者達だ。自らの危険を承知で、治すことのできる保障などどこにもないまま治療をする。結果として多くの医者が死に、その尊い犠牲によって治療薬が作られ、病は止まる。
「私は医者だもの。危険から逃げてはいけない。……私のお母さんもね、そうして死んじゃったの」
「え……」
少女は少し寂しい顔をした。
「私のお母さんが森の医者の一代目なんだ。いつも森の中を駆け回って、病気の動物や森の中で怪我をした人達を助けてた。私はそんなお母さんが大好きだったし、憧れていた。私にも治癒の力があると分かって嬉しかった! まあでも、力があるって知る前から薬を作ったり、包帯を巻く練習をしたりして、森の医者になる努力をしていたんだけどね」
少女は口元に手を当てて懐かしむようにクスクスと笑った。
「そんなお母さんが、ある時土砂崩れに巻き込まれて死んじゃった。雨が降って地盤が緩んでいるのを見たお母さんが、その下に住んでいた動物を避難させている最中だった」
「……森に母親を殺されたようなもんじゃないか。それでどうして森が嫌いにならなかったんだ?」
少女は空を見上げて二コリと微笑んだ。
「お母さんが死んじゃった場所で泣いていたの。そしたら、動物達がやってきて、花を添えてくれた。私はまだ医者として活動して無かったから、動物達は私に怯えていたけれど、それでも負けずに花を持ってきてくれたの。私にじゃないよ? お母さんのために花を持ってきてくれた」
急に少女は川の水で顔を洗った。そして袖で顔をぬぐう。
「あたりは一面花畑。その中心には涙を流す私とお母さんの墓」
そして少女は思った。これが『森の中の医者』なのかと……。
「嬉しかった。嬉しくって、感激して、理解した。お母さんは森の中の医者として働いていたんだって」
少女は作業を再開した。手を止めている間に雨が降りだしたら大変だ。
「街で治療をした時はお金をもらってた。だからそれは仕事なんだと思ってた。森で治療しても何も貰ってなかった。だからこれは趣味なんだと思ってた。でもお母さんはちゃんと報酬をもらっていたんだよ」
『ありがとう』
少女が泣きながら母親の墓に向かっていると、その横に動物達が花を置いていく。そしてその時必ずお礼を言うのだ。
一匹目、二匹目までは何とも思わなかった。しかし、次々に動物が現れて花を置いていく姿を見、何度も『ありがとう』という言葉を聞いているうちに、少女の心は落ち着いて行った。そしてあたりを見回すと、そこには綺麗な花畑が出来上がっていた。
「お礼の言葉。感謝の気持ち。それだって立派な報酬なの。だからお母さんは仕事をしていたんだよ。仕事だというなら責任が伴う。逃げてはいけない。『森の医者』として!」
少女はそう言って作業を続けた。
しかし、イタチは首を振って少女を止めようとする。
「でも……でもだ。お前が死んだらどうにもならない。お前の母さんだって望んでないはずだろ?」
「ふー……」
少女はもう一度手を止めてイタチを見た。
「私は人間だよ? だから道理に合わないことをする資格がある。でもイタチさんは動物でしょ? だから道理に合わないことはするべきじゃない」
「な、何言ってるんだ? 関係な……」
「イタチさんはさっき、これは自然の摂理だといった。でも、今イタチさんがしていることこそ、自然の摂理に反するんじゃないかな?」
「ぐ……う」
イタチは反論する言葉を失って、立ち去って行った。少女はそんなイタチの後姿を見て優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう……だよ、イタチさん」
少女は今度こそ作業を再開し、一心不乱に堆積物をどかし始めた。