電車内における酔っぱらいへの対応に関する考察
午後八時過ぎの電車内。平日は混雑するが、今日は日曜日なので座席にポツリポツリと客が散在しているだけだ。
そんな、家族や友人とゆっくり過ごしている人が多い日曜日であるにも関わらず、出版社に勤めるキョウコは今日も仕事だった。
休みたい、とぜいたくは言えなかった。どうしても来月出版する雑誌の原稿が、平日のうちに終わらなかったのだ。
本当は友達と一緒に、北海道の温泉へ行く予定だった。残念ながら断るしかなかった。二十六歳の独り身にとって、友人といることが一番の楽しみなのに。
「はあっ」と彼女は、長いため息を一つした。
そういうわけで、彼女は今ひどく貧乏ゆすりをしているのだが、イライラしているのはそれだけが原因ではなかった。
右肩が非常に重たい。それは、スーツ姿の若い男が寄りかかって眠っているためだ。彼とはなんら関係がない。彼女の隣に座った途端、彼は別の世界へ旅立ってしまった。
席はいくらでも開いているのに、どうしてあたしのそばに来たんだろう。そう思いながら彼女は、
「もしもし、起きてください」
と彼をゆする。しかしひどく酔っぱらっているらしく、とても起きそうにない。
彼を右側へ倒して寝かせてあげようとも考えたが、細くて非力な彼女の腕では、ほとんど動かすことができない。ひざ枕など、言語道断だ。
「しょうがないなぁ……」
結局、キョウコは向かい側の席へ移動することにした。彼を少し右側へ押して立ち上がる。
静かに寝かせるつもりだったが支えきれず、彼は本棚の本みたいにドタン! と左肩から座席に倒れこんだ。
「まあ、寝てるから気付かないわよね」
彼女はそうつぶやくと、反対側の席へ腰を下ろした。
その時、彼が体を動かしてうつぶせになった。そしてさらに、彼女へ背中を向ける。
「あっ」と声を出したが間に合わなかった。彼は、万有引力の法則に従って座席から落っこちた。
「ドスン、ゴツン!」
彼は背中と後頭部を打ちつけた。さすがに痛みは感じたようで、「うっ」と顔をしかめた。だが、それでも彼は目覚めない。
キョウコはそっと辺りを見回した。数人の客が、酔っぱらいへ視線を浴びせている。
ああ、誰か彼を座らせてあげてくれないかなあ。彼女はそう思いながら、自分はバックからケータイを出してメールチェックをし始めた。気まずくなったときは、ケータイがとてもありがたく感じる。
どうせ自分は、彼を持ち上げることはできないだろうし、周りから彼と関係があるように見えて、駅員室まで連れて行かなくてはならなくなると面倒だ。キョウコはそう考えていた。
彼女は一分くらいすると、逃げるように隣の車両へ歩いて行った。
『終点です。お忘れ物のないように注意してください』と眠そうな声のアナウンスが、電車内のスピーカーから流れてきた。酔っぱらいの男が、目を開けて床から立ち上がる。
「いてて……」
彼は後頭部をさすりながら、開いたドアからよろよろと外へ出た。風がビュウビュウ吹いていて、冷蔵庫の中にいるみたいだ。無意識に両手をこする。
おぼつかない足取りで改札口を通ると、駅の近くにあるコンビニへ向かった。
店の駐車場には、三台の車が止まっている。彼は真ん中の車に近づき、ドンドンと運転席のドアを叩いた。ウインドーが静かに開く。五十代くらいの中年男性が、顔を出した。
「どうだったかね? 床に落ちた時、助けてくれた人はいたかい?」
中年男性が、酔っぱらいに尋ねた。すると、それまでトロンとしていた酔っぱらいの目が、夜の森を飛び回るフクロウのようにしっかり見開かれた。しゃっきりした顔つきに変わっている。
「今日もダメでしたよ、教授。誰も見て見ぬふりです。オレが目をつけた女性は、隣の車両に逃げちゃいました」
若い男が、残念そうに視線を落としてそう答えると、教授と呼ばれた男性は、はあっとため息をついた。
「きみは演劇サークルの中で一番演技が上手だから、学生だと見破られず酔っぱらいだと思われたはずだ。そうか、やはり私の推測通り、都会の人は酔っぱらいに対して冷たいのか……」
教授の言葉を聞いた学生は口をとがらせながら、リードを解き放たれた犬のような勢いで文句を言った。
「いくらバイトとはいえ、教授の研究に付きあうのはもうコリゴリです! 三週連続で床に落っこちて頭を打った身にもなってくださいよ。もう辞めさせてもらいます」
学生が、既に痛みが引いた自分の頭をなでる。
「分かった、分かった。十分資料は集まったから、きみは今日で終了だ。お疲れさま。早く顔のメイクを落としなさい」
教授は学生をなだめて、車に乗るよう勧めた。学生は後部座席で、差し出されたタオルを使って赤いメイクを拭う。
「よし。来週からは私が老人のふりをして電車に乗ってみるとしよう。少なくとも、酔っぱらいよりは優しく声をかけてもらえるだろうな」
教授が車のハンドルをギュッと握ったと同時に、教授に提出するレポートに給料の増額を求める嘆願書を添付することを、固く決心した。