第六章 1、デストロス
腹の底に響くような低い叫び声を上げながら、マジークの体を、部屋中に飛散していた魔気が包み込む。
『オォォオオオオオオ!』
マジークの下へと集まった魔気は圧縮され、三m以上はある巨大な体を作っていく。
ベルとエリスは、その形に覚えがあった。
目の前で形作られていく巨体は、間違いなく魔王デストロスの形をしているのだ。
「ベル……、ベル!」
「えっ、な……何?」
体を震わせ、心ここにあらずといった表情をしたベルは、二回目の呼びかけで、やっとエリスの声に反応した。
「覚悟を決めなさい。今こそ、あたし達の宿命を果たす時よ」
「そ、そんな事言われても、僕は……、僕は恐いよ!」
「あたしだって恐いわよ! だけど、ここで魔王を仕留めないと、五十年前の惨劇が繰り返される事になるわ!」
「分かってるよ! けど……、足が竦むんだ。体の震えが止まらないんだよ! チクショウ! 今日ほど自分が情け無いと思った事はないよ!」
「落ち着いて、ベル。……ほら」
エリスはベルに手を差し出して見せた。その手は、微かに震えていた。
「あたしだって恐いわ。出来る事なら、今すぐにでも、ここから逃げ出したい。だけど、ここで逃げたら全てが終わりよ! 私達には、魔族に対抗できる力がある、だから、最後の最後まで抗いましょう!」
そう言って、エリスは決意の眼差しをベルに向ける。
「……エリス」
「その為には、あなたの力が必要なの。だからベル、お願い。力を貸して」
エリスの目を見て、ベルは迷いと恐怖を拭い去った。
数日前、エリスのように強くなろと誓った事を思い出したベルは、両手で思い切り自分の頬を叩き、挫けそうになった自分を叱咤する。
「分かった。やろう、エリス! 僕達の力で、魔王を倒すんだ!」
「ありがとう、ベル!」
力強いベルの言葉を聞いて、エリスは微笑んだ。
「レオンハルトさんも、一緒に戦いましょう!」
「ふざけた事を言うな。虫唾が走る」
そう言いながら、レオンハルトは剣を構えた。
「俺は一人でやらせてもらう。邪魔だけはするなよ」
「あらそう、だったら勝手にしなさい! 殺されちゃってもしらないから!」
レオンハルトは、エリスの言葉を聞き流した。
その時、大地の揺れが激しくなり、屋敷の壁の亀裂が、天井や床にまで達した。床に入った亀裂は瞬く間に広がり、召喚の陣を傷つけた。
「召喚の陣が壊れた、これで自由に動ける筈だよ」
「だけど、魔王の復活は止まらないようね」
大気が振動し、魔気はその凄さを更に増していた。
エリスは、両手に一つずつ持った聖剣を握り締め、ベルは魔術書を出して構えた。
「皆、屋敷が崩れそうだ! 魔力障壁を張るから、僕の側に来て!」
「レオン! 意地張ってないで来なさい! 戦う前に、ぺしゃんこになって死ぬなんて、あなたも嫌でしょ?」
「……ちっ」
しぶしぶながらも、レオンハルトがベルの側に近寄った。
それを確認した後、ベルは魔力を練り、それを自分を中心に半径一m程の、丸くて薄い魔力の壁を作り出した。
魔術師が多用する防御魔術、魔力障壁は、自らの魔力を周囲に張り巡らせる事で、様々な攻撃から身を守る術なのだ。
『グオォォオオオオ!』
「魔王が復活するわよ」
眩い閃光が、マジークを覆っている魔気の中から発せられた。
それと同時に、凄まじい波動がマジークを中心に広がり、屋敷の全てを吹き飛ばした。
一瞬にして、見事な屋敷が瓦礫へと変わり、辺りにもうもうとした砂埃が舞い上がる。
屋敷が崩れ去り、景色は屋外へと変わった。木々はなぎ倒され、丘の上の空には、暗雲と化した魔気が漂っている。
「波動だけで屋敷を吹き飛ばすなんて、無茶苦茶じゃないか」
「当然よ、相手は魔王なんだから」
砂埃の向こう。ベル達の身長より遥かに高い位置に、二つの赤い光が灯る。
それを見たベルとエリスは、拳を握り締めて恐怖を堪えた。
やがて、砂埃が風によって晴れていき。先程までマジークが居た位置を、沈みかけた夕日が照らし出した。そこに居る者を見て、エリスが呟く、
「魔王……、デストロス」
エリスとベルが過去に見た、エネルギー体の魔王と同じ姿をした本物の魔王が、悠然と立ちはだかっていた。
膨れ上がった茶褐色の筋肉は、まさに鋼の鎧。鋭い牙や爪は、どんな名剣をも凌ぐ武器となる。
五十年前、世界を震撼させた魔王デストロスが、現代に蘇ったのだ。
『我は、絶望を司りし魔王、デストロス。人間よ、貴様らに、苦痛と死を与えよう』
「面白い、やれるものならやってみろ」
一番に飛び出したのはレオンハルトだった。魔気を纏った剣を振りかざし、勇猛果敢に魔王へと突撃する。
だが、それを見たエリスは、
「待ちなさいレオン! 相手は魔王よ、ここは陣形を組んで」
「黙れっ! 俺に命令するな!」
レオンハルトが大地を蹴り、魔王の心臓目掛けて跳躍する。
「くたばれ魔王!」
そして、握り締めた剣を突き出した。
『魔気を纏った人間か、珍しいな』
「な、何だと!」
魔気で強化されたレオンハルトの剣だが、それでも魔王に傷を付ける事はできなかった。胸に突き立った剣は、魔王の胸の薄皮すら突き抜けていない。
『だが所詮は人間。魔気とは、こう使うのだ!』
「レオン避けてぇ!」
エリスの呼びかけも虚しく、魔気を纏った魔王の右拳が、硬直したレオンハルトの胴体に直撃した。
「……っ!」
凄まじい衝撃に呼吸器官が麻痺してしまい、レオンハルトは悲鳴を上げる事さえ出来なかった。
視界が揺らぎ、魔王の姿が何重にもぶれて見えた時には、レオンハルトの体は遥か後方へと弾き飛ばされていた。
「がはぁっ!」
辛うじて残っていた屋敷の壁に、大の字になったレオンハルトの体がめり込んだ。
そのままの状態で吐血したレオンハルトの視点は、未だに定まっていない。それほどまでに、魔王の一撃が強力だったのだ。
「レオンハルトさん!」
「ベル、レオンの回復をお願い、あたしが時間を稼ぐわ!」
「一人じゃ無理だよ! 僕が魔術で攻撃するから、エリスがレオンハルトさんをっ!」
「残念だけどベル。魔王の一撃を喰らったら、あなたは間違いなく即死するわ」
魔王の一撃を喰らったレオンハルトの光景を思い出して、エリスの言った事が間違っていないと悟ったベルは、自分の不甲斐なさを悔やみ、歯を食い縛った。
「魔王の封印が解かれたわけじゃない。あくまで、体の外に召喚されただけであって、まだ、あたし達と魔王の体は繋がっているわ。つまり、あたしの体は、以前と同じように、身体能力と回復速度が高いの」
エリスはしっかりと聖剣を握り締めた。
「だから、ここはあたしに任せて」
「分かったよ、エリス。……死なないでね」
「勿論よ」
そう言い交わした後、エリスは魔王に、ベルはレオンハルトへと駆け出した。
『人間の女か? 笑わせてくれる』
「そうやって馬鹿にしていられるのも今のうちよ!」
突き出された魔王の右拳を左に交わしたエリスは、瞬時に体制を立て直し、二つの聖剣を、魔王の右腕目掛けて×字に振り抜いた。