3、少女
「ふぅ、やっとお昼ご飯にありつける」
川岸へとたどり着いたベルは、ふかふかの芝生の上にごろんと寝転がり、大きく伸びをした。その上では、無数の雲が、ゆっくりと青空を散歩している。
鼻先を掠める心地よい草の匂に、ベルは目を瞑って小さく微笑んだ。
暫くの間、流れる川や水車の音に身を委ねていたベルだが、唐突に腹の虫が鳴き出した。
昼寝でもしていたい気持ちを抑え、ベルは持参した弁当の包みを開いた。中には出来立てとは言えないが、それでも美味しそうなサンドイッチが三つある。
今朝、近所の奥さんからパンを貰った時から、昼食はサンドイッチを食べようと決めていたベルは、店番をしながら、密かにこれを食べる時を楽しみにしていたのだ。
村で作られたシャキシャキのレタスに、村で育った牛から作られたチーズと、村で育った豚をこんがり焼いた肉。それらを適当な分量パンに挟んでしまえばあら簡単、ベルの好物がぎっしりと詰まったサンドイッチの完成だ。
サンドイッチなんてどこに行っても食べられるが、この村の物だけを使って作られたサンドイッチは、この村でなければ食べられない。
ベルはそんなサンドイッチを食べられる事に感謝をしつつ、一つ目のサンドイッチに手を伸ばしたが、
「……あれ?」
すぐにその手を引っ込めた。
視界の隅、チラッとだけ見えた川に、何かが浮いていたのだ。
「ん……?」
目を凝らして、それが何なのか確かめようとしたベルが見たものは、川の上流から浮き沈みしながら流れてくる、溺れた人間だった。
「あはは、なんだ、溺れた人間か」
やれやれ、とベルは笑って見せる。
「って、人だよぉぉ! ヤバいよ、何笑ってんの? バカか僕は!」
川の上流から溺れた人が流れてくる。そんな非日常的なシーンを目の当たりにして、少々取り乱したベルだったが、直ぐに自分を取り戻して、川へと駆け寄った。
「今助けます! 気をしっかり!」
普段は緩やかな川だが、連日続いた雨の所為で、今は流れが増している。
「とぅ!」
ベストを脱ぎ捨てたベルは、掛け声と共に雄々しく川へと飛び込んだ。
ビターーーン!
「ぶへぇ!」
ベルは思い切り腹打ちをしてから気が付いた。そう、何を隠そう、ベルは泳げないのだ。
「ぶくぶく……」
そのまま流されていたベルだが、ふと頭の中に妙案が浮かび上がった。
こんな時こそ、日ごろ鍛錬を積み重ねてきた魔術を使う時ではないか! と、死にかけながらも意気込む。
「ぷはっ!」
がむしゃらに手足をバタつかせ、何とか川岸まで辿り着いたベルは、しっかりと地に足をつけて、乱れた呼吸を整えて精神統一をする。
そして、ゆっくりと両手を胸の前に突き出し、溺れた人へと狙いを定めた。
ベルは、幼少の頃から頭の中に叩き込んでいた詠唱を口にする。
『風よ 我が声に応えよ』
ベルが突き出した両掌の前に、淡い緑光を放つ小さな円が浮かび上がった。
円の中には風を司る紋章と、黒魔術を制御する為の紋様が記されている。
この円と紋章と紋様は、総じて陣と呼ばれていて、風の黒魔術なら緑色、炎の黒魔術なら赤色といったように、黒魔術の属性によって発光する色を変化させる。
黒魔術とは別に、白魔術と呼ばれる魔術も存在する。白魔術は、傷や毒を治す、治療専門の魔術だ。この世界では、黒魔術と白魔術の二つが、人々の生活を支えているのだ。
黒魔術は、『火』『水』『土』『風』『雷』の五つの種類に分けられ、今もなお、多くの魔術師達によって、新たな黒魔術の研究や、現存する黒魔術の改善が行われている。
『ウィンドポート』
ベルが唱えた詠唱と魔術名によって、魔術が発動する。今ベルが行った一連の動作が、人間が魔術を唱える為には必要不可欠な行為なのだ。
魔術とは、詠唱と共に高められた自身の精神エネルギー、魔力によって陣を描き、魔術名という引き金によって高めた魔力を開放し、術が発動する仕組みになっている。
魔術によって生み出された風が、激しく水面を揺らし始めた。まるで、大量の魚が水面で暴れているかのような光景だ。
その後、溺れた人の体がふわりと空中に浮かび上がった。
ウィンドポートは、風の力を借りて、物や人を移動させる事が出来る魔術なのだが、移動速度が遅く、幼児のハイハイと同じスピードなのだ。そんな事もあって、時代の流れと共に廃れてしまった魔術なのである。
やがて、のろのろと空中浮遊をした体が岸辺へと下ろされる。ベルは安堵のため息を吐き、溺れた人を下ろした場所へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
うつ伏せになってピクリとも動かない人を前にして、ベルは恐る恐る声をかけた。
細身で丸を帯びた体つきから察するに、目の前の人物が女性だという事が分かる。
「死んじゃったりしてませんよね? ね?」
ベルは人差し指で女性の背中を数回突ついてみたが、反応は無い。
最悪の事態を思い浮かべてしまったベルは、応急処置をするために、目の前で突っ伏している女性の肩を掴んで、くるりとひっくり返し仰向けにさせた。
「……女の子」
ベルは息を呑んで石人形の様に固まった。溺れていたのが、まだ十五~六歳の少女だったという事実よりも、その美しさに目を見張らせていた。
まだ幼さが残っているが、王都の劇場で活躍する、美人の役者達にも引けをとらない顔立ちと、百六十cm程の身長をした、女性としての魅力を十分に備えている体つき。
上は木綿のシャツの上にレザーアーマー、下は豚の魔獣ブラモスの皮で作られたプリーツスカートを着用し、足には軽くて丈夫なレザーブーツを履いている。
少女の左の腰には刃渡り九十cm程のロングソードが携えられていて、それが少女が剣士だという事を物語っていた。
しかし剣士にしておくには惜しい。ドレスでも着込んでダンスパーティーに赴けば、男達が放ってはおかないだろう。
「凄い可愛い女の子だ……、どこから来たのかな?」
少女の髪型は、肩の少し先まで伸ばした赤毛を一本に束ね、その先を紐で結い、それを左の胸元に垂らすという独特な髪形をしている。
「って、見とれてる場合じゃないよ! お、応急処置しなくちゃ!」
ベルは人工呼吸をしようと、少女に顔を近づけるが、すぐにやめた。人工呼吸と言えば唇と唇、マウスとマウス、リップとリップを重ねる事、それ即ちキッス。
「どう考えても、キッ……キッス、だよね、人工呼吸って」
ベルの心臓が活動を早める。顔を真っ赤にしながらも、ベルは必死に次の手を考えた。
「な、なら!」
心臓マッサージだ! と、少女の胸に手を伸ばすが、またしてもすぐにやめた。いくら溺れて気絶しているとは言え、うら若き女性の胸を触る事など、純情青年のベルには到底、
「できないよぉーーー!」
無理なのだ。
田舎の村と言う閉鎖的な空間で育ったベルは、女性との出会いが無かった。
年頃の娘は、十五を過ぎると、村の外へと嫁いでいってしまう。気づいた時には、ベルの回りには彼と同じ年代の女性が居なくなっていた。
そんな訳で、ベルは同い年くらいの女性に対して、免疫が殆ど無い。
「くぅ……、こんな時、お祖父さんが居れば……」
『ベルよ……』
「お、お祖父さん!」
『ワシじゃよ、お祖父ちゃんじゃよ』
「お祖父さん、僕は……僕は一体どうしたらいいのですか!」
『魔術じゃ、困った時こそ、魔術を使うのじゃ。魔術を使えば、大抵の事は上手くいくかも分からない』
「魔術ですね、お祖父さん! お祖父さぁぁあん!」
『魔術じゃ、孫よ! 孫よぉぉおお!』
ベルの悪い癖、『困った時のお祖父さん』が発動してしまった。
ベルは極度に困った事態に遭遇すると、頭の中に祖父であり、人生の師匠でもあるイウヴァルトお祖父さんを作り出して、一人会話をしてしまうのだ。
最近は、ベルが大人になって落ち着いてきた所為か、発動する回数も減ってきたが、未だにイウヴァルトに依存してしまっている傾向がある。
傍から見たら、ベルが一人二役で喋っている事になっているので、かなり不気味だ。
「はぁ……」
ベルは先程と同じように掌を突き出し、今度は狙いを少女の腹へと定める。
『風よ 我が声に応え 波動となれ ウィンド・ボム』
風の最下級黒魔術、ウィンド・ボムが炸裂する。精神的にも肉体的にもダメージを与える事はできないが、凄まじい風圧によって、物体を後方に吹き飛ばす黒魔術だ。
しかし、それはターゲットが数mも離れている時の場合。
ベルと少女の距離は明らかに一m以内。これほどの至近距離で放ち、尚且つ、対象者である少女の背中に大地と言う壁があるので、逃げ場を失った衝撃が少女の腹を襲う。
「がぁっ!」
ウィンド・ボム特有の唸るような破裂音が響き、少女の手足がビクンと跳ね上がった。
風の最下級黒魔術と言えども、かなりの衝撃が伝わった証拠だ。しかし、冷静さを欠いたベルの魔術は止まらない。
『ウィンド・ボム!』
「ぎぃっ!」
『ウィンド・ボム!』
「ぐぅっ!」
『ウィンド・ボム!』
「げぇ!」
『ウィンド・ボォォオオム!』
「ごぉっ……!」
「はぁ……、はぁ……」
魔術の連続使用は、人の精神に多大な負担をかける。ベルは肩で息をしながら、混乱気味の頭を整理していく。
「思わずウィンド・ボムを連発しちゃったけど、……大丈夫だよね?」
少し冷静になった時、とんでもない事をしてしまったという自責の念が生まれたベルは、少女の安否を確かめるべく、その柔らかそうな頬を軽く叩いた。
「もしも~し、大丈夫ですか?」
「うっ……ゲホっ! ゴホっ!」
「生きてる、よかったぁ」
「うっ……うぅ」
「な、何ですか?」
少女の口がパクパクと動いている事に気がついたベルは、何か言いたい事があるのだろうと察し、少女の口元へと耳を近づけた。
「お……」
「お?」
「お腹……が、空いた」
「へ?」
「お腹が……空いた」
それだけ言うと、少女は意識を失い、寝息を立て始めた。
「……どうしよう」
ベルは困っていた。このまま放置する訳にもいかない、かと言って、自分が過剰な応急処置を少女にしてしまったのは紛れも無い事実。
「お祖父さん……、僕はどうしたらいいんでしょうか……」
そう呟きながら、ベルは真っ青な天を仰いだ。
あれほど空腹だったにも関わらず、あまりにも衝撃的な出来事の連発に、ベルの食欲など。どこかに消えてしまっていた。