2、不穏な影
「さて……と」
食事を終え、マスターの奢りであるジュースも飲み干したエリスは、本来の目的に取り掛かり始めた。
「ねぇマスター?」
「なんだ、食ったんなら帰れ、そしてさっさと寝ろ」
「そんな事言わないで、聞きたい事聞いたら帰るからさ」
エリスを暫く見つめた後、マスターは諦めの溜息をついた。
この娘に何を言っても、質問をさせてくれるまで帰らない、そうエリスの目が物語っているのが分かったからだ。マスターは気乗りしない素振りで口を開いた。
「言っとくが、危険な情報は教えんからな」
「大丈夫、あたしが知りたいのは、ある人の所在だけだから」
なら応えてやらんでもない……。そんなマスターの言葉を聞いたエリスは、さっそく聞き込みを始める。
「天空の魔術師 イウヴァルトって人何だけど、この人について何か知らない?」
「イウヴァルト、だと?」
エリスの席から少し離れた場所に座っている男が、思いがけない名前を耳にして、口元まで運んだジョッキをピタリと静止させた。
クシャクシャに跳ねた髪の毛に無精髭を蓄え、睨み付けんばかりの切れ目がとても特徴的な男だ。
男はエリスの言葉を一言も聞き漏らすまいと、耳をすます。
「天空の魔術師ってのは知らねぇが、イウヴァルトなら知ってるぜ」
「ほ、本当? ねぇ! どこ、イウヴァルトさんはどこにいるの!」
ようやく掴んだ確かな情報に、エリスは目をキラキラと輝かせながら立ち上がった。
「ここから南に山を三つ程越えた場所に、ウィンドヘルムって村があるんだが、確かそこの道具屋の店主が、イウヴァルトとか言う爺さんだったような気がするぜ」
「……やっと、やっと見つけた」
「けど、お前さんが言った、なんとかの魔術師ってのがその爺さんだと言う保障は無いぜ」
「いい、いいの! ありがとマスター!」
エリスは嬉々としてマスターの手を握り、ブンブンと上下に振った。
「……」
それを横目で見つめる無精髭の男は、ビールを一気に飲み干した後、不気味にニヤリと笑った。
あるはずだ、噂の女が目の前に居る奴なら、きっとアレを持っている。男はそう確信していた。
男はエリスに気付かれないよう、エリスの体を上から下まで注意深く見た。上半身はレザーアーマー、腰にはロングソード……、見たところアレは無い。だとしたら、手荷物か? と、男はエリスの足元に置かれたナップザックへと視線を泳がせる。
「マスターありがと、あたし急ぐから! えっと……お財布お財布……」
エリスはナップザックを取り出し、中を漁る。
「あれぇ? どこに仕舞ったんだっけ?」
「見つからないなら、その中身をカウンターの上にぶちまけちまっても構わねぇぜ」
エリスがナップザックを抱えながら、ジト目でマスターを睨む。
「……」
「あん、何だよ?」
「エッチ。この中には着替えとかも入っているのよ」
「ガキの下着なんか見ても嬉かねぇよ」
「……ちょっとムカついたわ」
「いいからさっさと探せ、先を急ぐんだろ?」
エリスは口をへの字にしながらも、ナップザックの中の物を一つ一つカウンターの上に置いていく。もちろん、見られたく無い物は出さない。
「えっと、明日のお弁当でしょ……明後日のお弁当でしょ……明々後日のお弁当に……」
「お前、バカだろ」
「え? ごめんマスター、聞こえなかった」
「……いいから、さっさと財布を探せ」
マスターが何を言ったのか疑問に思いながらも、エリスは荷物を取り出していく。
「えっと、これじゃなくても……これでもなくて……あ! あった!」
「!」
あった! カウンターの上に置かれた物の中に、男も目当ての物を見つけて、思わず目を見開いた。
男は緩む頬を何とか抑え、脱いでいた真紅のフード付きマントを羽織り、何食わぬ顔で席を立つ。
「マスター、いくら?」
「さぁて、いくらふんだくってやろうかな?」
マスターの口がニヤリと歪む。
「げっ、ここってそういうお店なの?」
「バカ、冗談だよ」
「……」
男は気配を殺しながら、無言でエリスの背後へと近づく。
「まあ、ちょいとまけて銅貨十枚ってところだな」
「へぇー、結構安いわね」
エリスは袋状の財布の紐を解いた。そして、中から銅貨を十枚取り出そうとする。
「!」
今だ!
男は素早く左手を伸ばし、迷わず目当ての物を掴んだ。
「おい」
咄嗟に横から出てきた太くて逞しい腕、その手が男の手首をガッチリと押さえた。
驚いた男は、即座に顔を上げる。男の目の前には、鋭い目つきをしたマスターが居た。
「大人しくその手を離しな、そうすれば、役人に突き出すのは勘弁してやるぜ」
「……っ」
男は空ている方の手を、腰に提げたショートソードの柄へと滑らせる。
「おいアンタ」
今度は男の後ろから逞しい腕が伸び、男の肩を掴んだ。
男は振り向かなかった。店内に響き渡る沢山の重い足音を聞いて、おおよその見当が付いてたのだ。
男の予想通り、男の背中を、店で飲んでいた炭鉱マン達がぐるりと囲っていた。さながら筋肉の壁である。
「俺たちの憩いの場で、野暮な事するもんじゃねぇぜ」
「どうしてもそいつを抜くってんなら、日ごろから鍛えられた炭鉱マンの力、お披露目しちゃうよん?」
「え、何? どしたのよ?」
先程の賑やかさとは打って変わっての殺伐とした雰囲気に、エリスだけが事情を飲み込めずにあたりをキョロキョロと見回していた。
「……その趣味の悪い格好、お前ぇハインデルツの関係者だな」
男が入店したその時から、マスターはずっとそう思っていた。
この辺りで真紅のマントに身を包んだ者と言えば、ハインデルツの手下しかいない。
「俺ぁ穏やかな人間だから、ハインデルツだろうがなんだろうが、大抵の客は受け入れてやるよ、だがさすがにそんな物を抜こうとする奴は許しておけねぇ……」
男の手首を掴む手に力が入る。そしてマスターは低く唸るような声で、
「勘定払ってとっとと帰んな……」
「……」
男とマスターが睨みあう。暫くの間そうしていたが、先に目を逸らしたのは男の方だった。
「……ちっ!」
男は怒りの形相を浮かべながら懐から硬貨を取り出し、それをカウンターに叩きつけた。
「どけっ!」
そして肉の壁押しのけながら、早足で店の外へと消えていく。
「へん! ざまあ見やがれってんだ!」
そうだそうだと炭鉱マン達が勝利の雄たけびをあげた。
「マスター、助けた礼に、今日の飲み代はチャラって事でヨロシク」
「うるせー! 余計な事しやがって、あんな奴俺一人で十分なんだよ。 それよりさっさとツケ払いやがれ!」
「おー怖ぇ……、退散退散っと」
ケラケラと笑いながら炭鉱マン達は元の席へと戻り、すぐに店は元通りの活気を取り戻した。
終始状況が分からなかったエリスだけが、呆けた顔をしている。
「ねぇ、何があったの? マスター達、何怒ってたのよ」
「気にすんな。それより嬢ちゃん、自分の荷物は大切にしろよ。世の中皆良い奴ばかりとは限らないんだからよ」
「ん、覚えとくわ」
「……ったく」
エリスは、情報を掴んだ嬉しさでニコニコと笑っている。
そんなエリスを見て、マスターは溜息を吐いた。こいつ、本当に分かってるのか? と、まるで親が子供を心配するかのような気持ちがマスターの中に生まれていた。
「ねえ、それよりさっき言ってたハインデルツって、何なの?」
その言葉を聞いて、マスターの眉がピクリと動く。
「最初に言った筈だぜ、危険な情報は教えない……ってな」
「けちんぼ」
エリスは口を尖らせた。
「知らなくても生きていける。それに、聞いたところでお前さんには何の得も無いし、これから先も関わる事は無いだろうよ」
「まぁ、それならいいや」
キュッとナップザックの口を閉め、エリスが立ち上がる。
「行くのか?」
「ええ、明日の夕方までには、そのウィンドヘルムって言う村には着きたいからね」
「今日は遅いから宿に泊まっていけ……つっても、どうせ聞かないんだろ?」
「マスター分かってるじゃない」
エリスはパチっと可愛らしくウィンクをしてみせる。
「おえっ……」
その姿を見て、マスターは吐き気を催したかのような顔をして口を押さえた。
「吐くなぁっ!」
もちろん、マスターは冗談でやっていた。エリスもその事をちゃんと理解している。
「ボケはこのくらいにして、さっさと行け! 道中気をつけるんだな、この糞ガキが」
「うん。じゃーね、マスター! シチュー美味しかったわよ!」
「当たり前だバカ野郎!」
元気良く駆けて行く後姿を見送ってから、マスターはエリスの食器を片付け始めた。
会って間もない人間だが、何故だか放っておけない変な奴だとマスターは思った。そして食器を洗っている最中に気付く。
「あ……、そういやあの嬢ちゃんから勘定貰ってねぇや」
変な奴と喋ってた所為で調子が狂っちまった……。そう呟きながらも、別段悪い気はしていないマスターだった。