根あり草
松尾は本の香りが好きだった。
昔――小学生の頃に母に連れられ、県立の図書館へ赴いた。自分の数倍の高さがある本棚達が、今にも倒れかかって来そうな程の圧迫感を与えてきていた事を松尾は今でも覚えている。
母の手を握り、いつ襲ってくるか分からない本棚に怯えながらも、松尾はその静寂に満ちた厳かな空間にどこか魅了されていた。
外界の、排気ガスと混じりあったアスファルトの焦げた匂いやけたたましい環境音から一切を隔絶された図書館は、ひんやりとした古い紙の香りに満ちていた。
何百年の見知らぬ誰かの知識や想いや呼吸が、幾層にも重なり合った香り。
母の、少し湿った手のひらの温もりを錨にして、この果てしない静寂の海の中を泳ぎ始めた。
それから数年。黒いランドセルを背負っていた松尾は高校一年生となった。
たった数年で世界は随分と騒がしくなり、液晶越しの現実に一喜一憂し、情報の錯綜に惑わされる人々が増えた。
人との関わりは、いつもささくれ立った摩擦を生み、松尾の心を容赦なく削っていった。松尾が他人と接する意欲を削ぎ取るには、この数年は十分すぎる時間だった。
そんな彼が辿り着いたのは、文芸部室だった。
新校舎の設立により、文化部の部室棟と化した旧校舎の最上階。西日の入る文芸部室のドアを開けた松尾を迎え入れてくれたのは、本の香りだった。
カビの浮いた背表紙。陽に焼けた更紙。それらが、埃っぽい西日の光の粒子の中で静かに呼吸していた。
窓の隙間から聞こえてくる運動部の声や車の走行音。世間の環境音からは隔絶させてくれたりはしないけれど、ここの空間に松尾は静かに目を輝かせた。
そして、部屋の奥の窓辺に、その人はいた。
「いらっしゃい」
パイプ椅子に座り、読んでいた文庫本から顔を上げ、穏やかに微笑む女子生徒。
彼女の声は、部室に漂う古い紙の香りの一部であるかのように、静かで、角がなくて、どこまでも耳に優しかった。松尾は彼女の言葉にぺこりと頭を下げた。
女子生徒は松尾の入室に特に驚くでもなく、理由を詮索するでもなく、ただそこに吹く風を受け入れるような、そんな佇まいで、
「適当に座っていいよ。何を読んでも自由だから」
とだけ言って、手元の本に視線を落とした。
松尾は促されるまま、ゆっくりとした足取りで文芸部室へ足を踏み入れた。
女子生徒が座るパイプ椅子以外の椅子は、部室中央に並べられた机の周りに等間隔に配置されていた。机は細かい傷や落書きが見られ、過去に使用されてきた歴史が刻々と残されている。ひとつの机の上にはパソコンが置かれているが、今は起動されていないようだった。
片側の壁際に隙間なく置かれた本棚には、多少の隙間はあるものの数多くの本が収められている。
松尾はゆったりと鞄を持ったまま本棚を端から眺めていく。
人間失格、こころ、羅生門。有名どころの文学書は一通り揃えられている様子だ。松尾は背表紙のタイトルをなぞるように目線を動かして、一頻り確認を終えると、空いている適当なパイプ椅子に腰を下ろした。
「あれ、読まないの?」
視線を本から離さないまま、静かに女子生徒が松尾に問いかけた。松尾はその問いかけに答える前に自分の鞄から1冊の文庫書を取り出した。
「……これ、読みますから」
「いいね。本好きなんだ」
チラッと松尾の手にある本を見て、女子生徒は優しく笑った。
「私は吉野。3年生で、一応ここの部長ね」
「……1年の松尾、です」
「そっか。松尾くんよろしくね。私がいる間なら好きなだけここに居てくれて構わないよ」
吉野はそれだけ言うと、満足したようにまた自分の本へと視線を戻した。
淡々とした自己紹介と簡潔な会話。部員でもない松尾に対してあまりにも淡白な反応ではあった。だが、緩やかな境界線を引いてくる吉野の言動は、松尾にはひどく有り難かった。
パサリ、と吉野先輩がページをめくる音が、西日の橙色に染まる部屋に小さく響く。
松尾もまた手に持った文学書を開いた。
窓の外からは、微かにグラウンドを走る掛け声や、遠くの幹線道路を走る車の音が聞こえてくる。きっと世界は目に見えないところでも忙しなく動いている、
けれど、この部屋の中に流れる時間は、それらとは全く違う歩幅で進んでいるような気がしていた。少なくとも松尾には。
言葉を交わすことはなかった。各々の手に持つ物語の海へ深く潜り込んでいけるならば、それ以上求めるものなんてなかった。
机の上の埃が西日に照らされて、きらきらと光の粒子のように舞う。その静寂の中で、二人の影は床の上に静かに並んでいた。
空が紫がかって来た時、吉野は椅子から立ち上がった。「ん〜」と本を片手に伸びをする吉野を見て、松尾も読みかけの本を自分の鞄にしまった。
「松尾くん」
吉野がトコトコと狭い歩幅で松尾に歩み寄る。
「これ、入部希望用紙ね」
手渡されたのは1枚の用紙。
「うちの学校。部活への入部推奨してるでしょ? どっか入ってないと後からチクチク言われてめんどくさいしさ、良かったらどうかな?」
手を後ろに組んで顔を傾ける。胸元まで伸びた黒髪が揺れて、ふわっと清涼感のある甘い香りが松尾の鼻腔を抜けた。
所作の一つ一つがキレイで整っている。松尾は感嘆の混じった声で「はぁ……」と呟いてその用紙を受け取った。
「名前を書いて私に渡してくれたらいいから。あ、ちなみに、入部しなくても部室に来てもいいよ」
「え?」
「ここは、文学が好きな少年少女が集まるところだからね。肩書きなんて、なんでもいいの」
吉野はそう言って、髪をなびかせながら振り返って、窓際に置いた鞄を取りに行く。
松尾は入部希望用紙に目を落とした。中学時代は帰宅部で、高校も特に部活に属するつもりはなかった。
今日ここに来たのも気まぐれで、人と関わらなければならない部活に所属して、本を読むメリットは特に感じていなかった。
だけれど――
「さ、松尾くん。とりあえず今日はもうお開きだよ」
鞄を手に持って穏やかに笑う吉野を見て、先程までの時間を思い返す。
吉野が立ち上がるまで、松尾は吉野と同じ空間で読書していたことすら忘れたように、没頭していた。
文芸部室で他人と時間を共有しながら読書していたことに変わりはなかった。
そこに、不快感なんてなかった。
松尾はその場で用紙に署名した。
吉野は「ありがとう」と嬉しそうに目を細めてそれを受け取った。
「これで、部員は二人だね」
吉野は用紙をクリアファイルに仕舞い、鍵を閉めるために松尾を促して部室の外へ出た。
パタン、と木製の重いドアが閉まり、鍵穴の回る金属音が響く。
廊下に出ると、途端に現実のざわめきが鼓膜を叩いた。遠くの階段から聞こえる他の生徒たちの話し声、部活動の足音。
けれど、松尾の心はさっきまでとは違って、どこか凪いでいた。鞄の奥で、先ほどまで読んでいた文庫本が、かすかに重みを持っているのを感じる。
夕暮れの渡り廊下を、吉野の後を追うように歩く。
吉野の歩幅は小さい。松尾は自然と自分の歩調を緩めていた。特に彼女と会話がある訳でもないのに、何故か歩幅を合わせて校門を抜ける。それまでに吉野が唯一吐いた言葉は「夕焼けが綺麗だね」と、誰に言うでもなく呟いた一言だけだった。
ここは、息がしやすいな。
校門で別れて、歩いていく吉野の後ろ姿を見ながら、松尾はそう思った。
ヒグラシの鳴き声が、窓の隙間から部室に流れ込んでくる。
日暮れの時刻は遅くなり、まだ青さを残す空から差し込む柔らかい陽射しをライト代わりに、吉野は窓際で本の世界へと潜り込んでいた。
たまに吹き込む夏風が、彼女の黒髪をそっと揺らす。松尾はその様子を、手元の頁の余白からそっと眺めていた。
入部から数ヶ月が経ち、すっかりこの部屋の住民となった松尾は、毎日欠かさず旧校舎の最上階へと足を運んでいた。
ただ椅子に座り、本を読む。それだけの活動を繰り返し、たまに吉野と他愛のない会話を交わす。そんな毎日だった。
――吉野先輩は、本を読む姿が画になる。
季節が進むにつれて、松尾のなかで、惚けるように彼女の横顔を眺める時間が少しずつ増えていた。
「……松尾くん」
「あ、はい」
唐突に名前を呼ばれ、びくと松尾の肩が跳ねる。
吉野はうーん、と声を漏らしながら、前髪を片手で手ぐししながら、言いにくそうに松尾を見た。
「その、私の顔とか頭になにか付いてる?」
「……いえ、そんなことは」
「さっきから、ずっと見てきてない?」
松尾は口篭るように押し黙った。
バレていた。吉野の視線はずっと手元の本に向けられていたはずなのに。
バツの悪さに耐えかねて、松尾は慌てて視線を自分の本へと落とし、「すみません」と小さく声を絞り出す。
「別に、謝ることじゃないんだけどね」
吉野が少し困ったように笑い、何かを続けようとした、その時だった。
文芸部室の木製のドアが、音を立てて勢いよく開け放たれた。
「吉野! 助けてくれ!」
「なに、どうしたのさ」
「次の試験までもう日がねぇんだよ! 教えてくれ!」
「なんで私なのさ」
「吉野、頭いいじゃん頼むよー!」
吉野の目の前まで突進し、大声を張り上げて試験勉強を頼み込む男子生徒に、吉野は困ったように目尻を下げた。
一方、松尾は唐突な闖入者にただ体が固まってしまっていた。吉野と遠慮のない距離感で話している様子を見るに、おそらく彼女と同学年の生徒なのだろう。
相手が先輩となると余計に口は挟めない。いや、そもそも松尾には、他者と適切なコミュニケーションを取るスキルなど端から持ち合わせてはいないのだけれど。
ただ、困り顔を見せる吉野の表情は、少なくとも拒絶しているようには見えなかった。むしろ、どこか嬉しそうにさえ映る。その様子に松尾は何も言わずに自分の本へと視線を落とした。
吉野の知らない一面を、少しだけ覗き見ることができたような気がして、そこまで悪い気分じゃあなかった。
男子生徒の闖入以降、吉野と男子生徒が親しげに校内を歩いている様子を時折松尾は見つけることがあった。二人の間に流れる空気は松尾の目から見ても特別で、松尾は密かに吉野のことを祝福した。自分に居場所を与えてくれた恩人が幸せであることを、柄にもなく願っていた。
少しずつ、吉野が文芸部に顔を出す頻度も減っていった。
松尾は、彼女が最高学年であり、受験という人生の岐路を控えているから忙しいのだろう、とか、恋人との幸せな時間を満喫しているのだろう、とか、特段気にすることもなかった。
一週間に一度以上は部室で顔を合わせていたし、その時の吉野はいつもと変わらない穏やかな先輩のままだった。
だから松尾は、吉野がいてもいなくても、同じようにパイプ椅子に座り、同じように本の虫となり、同じように文芸部室で時間を過ごしていた。
かつて他者との摩擦を恐れて逃げ込んできたこの文芸部室は、今や吉野という存在の有無にかかわらず、すっかり松尾にとっての「自分の居場所」として馴染んでいた。けれど、時折、夕暮れの橙色の中で吉野と二人きりになり、ページをめくる音だけを共有する時間が、やはりたまらなく心地いいと、松尾は噛み締めていた。
会話がなくても、誰かといる時間に癒されているような、救われているような、そんな感覚があった。
そして、十一月の末。
世界が冬という季節を突如として思い出したかのように、急激に冷え込み出した時期のことだった。
その日、放課後の廊下は凍てつくような寒さで、松尾は制服のブレザーのポケットに両手を入れて、いつものように旧校舎の最上階へと向かった。
ドアを開けると、暖房の入っていない部室の空気は、廊下よりもさらにひんやりと張り詰めていた。
部屋の奥、西日の差し込まない、灰色の曇り空に切り取られた窓辺で、松尾の目は吉野の姿を捉えた。
「吉野先――」
松尾は挨拶をしようと発しかけた声を、慌てて喉の奥へと引っ込めた。
窓際でパイプ椅子に座る吉野の様子が、いつもと明らかに違っていたからだ。本を膝の上に乗せ、穏やかに微笑む彼女はそこにはいなかった。両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせながら、その指の隙間からぽたぽたと涙をスカートに染み込ませている。それは、松尾が生まれて初めて見る、彼女の姿だった。
「……ぅ、あ、ごめん、ね」
松尾の存在に気づいた吉野の声は、喉の奥でひび割れてしまったような、ひどく掠れたものだった。松尾がここへ辿り着くまでに、彼女がどれほどの時間を泣き暮らしていたのかが痛いほど分かってしまう、悲痛な声色。
吉野はずび、ずび、と鼻をすすりながら立ち上がり、ポケットから取り出したハンカチを口元に当てた。
そして、入口で硬直している松尾の横を、目を合わせぬまま通り過ぎ、部室を出ていこうとする。
――待ってください、どうしたんですか。
松尾の喉元まで出かかった言葉が、そこでぴたりと止まる。
自分なんかが聞いてしまっていい事なのか。自分なんかが踏み込んでいい領域なのか。自分なんかが吉野先輩の問題を解決出来るのか。自分なんかが誰かを助けるなんて出来るのか。自分なんかが助けようとしていいのか。自分なんかに、一体何ができるのか。
思考の波に呑まれながら、文芸部室を出ていく吉野の後ろ姿に、松尾はゆっくりと手を伸ばした。
けれど、届かせる気のない手は当然のように虚空を掴み、彼女の背中には、ついに届かなかった。
その日を境に、吉野が文芸部室に姿を現すことはなくなったし、学校内で姿を見ることもなくなってしまった。
吉野の身に何が起きたのか、それを知るために、かつて文芸部室にやってきていた男子生徒に事情を聞きに行こうかと迷ったこともあった。
唯一の手がかりとなる相手だ。しかし、他者との摩擦を恐れる松尾にとっては、それこそ清水の舞台から飛び降りるほどの決意が必要なもので、それでも当時、吉野の背中を追えなかった後悔が、松尾の背中を押した。
しかし、その決意はあっけなく霧散した。
廊下の向こうから歩いてくる例の男子生徒の隣には、見知らない別の女子生徒の姿があった。
彼は以前と変わらないあの屈託のない笑顔で、隣の女子生徒と笑い合いながら、松尾の横を通り過ぎていった。
その姿を見た瞬間、松尾は悟った。きっと二人の間で、松尾のような部外者が決して踏み込んではいけない、決定的な何かが起きたのだろう。そして、あの男にとって、吉野という存在は、すでに過去の頁へと追いやられてしまったのだ、と。
世界は残酷なほどに、何事もなかったかのように回り続けている。部室の隅で自分の心の傷に涙していた吉野を、その歯車から容赦なくこぼれ落としたままで、刻一刻と季節は流れてしまう。
ついぞ、卒業式にも吉野は姿を見せなかった。
梅が芽吹いて春風が舞い込む文芸部室の窓際には、未だにあのパイプ椅子が置かれたままだった。今や誰も座ることのないその座面の上には、うっすらと白い埃の層が出来ていた。
文芸部室の木製のドアを開くたび、窓際で本の世界へと没頭する彼女の姿が、鮮烈に脳裏をよぎる。
「いらっしゃい、松尾くん」
そんな幻聴さえ、松尾の鼓膜の奥で掠れるように響く気がした。
新学期が始まり、校庭の桜が咲いて、世界が新しい季節へと無理やり衣替えを済ませてもなお、松尾の視線はいつも、このガランとした部屋の中に吉野の影を追い続けていた。
パサリ、と静寂を裂くようにページがめくられる音。
手を後ろに組んで顔を傾けたときの、黒髪の揺らめき。
吉野が居なくなったあの日から。松尾は自己嫌悪と無力感の中で、まるで根を張ったように文芸部室ごと凍りついたように止まったままだった。
松尾がどれだけ新しい文庫本を捲ろうとも、部屋に満ちる古い紙の香りは、あの二月の冷気を含んだままで、清涼感のある甘い香りが時折鼻腔を掠める錯覚に、何度文庫本を折り曲げただろうか。
松尾は二年生になっても、ただ一人、夕暮れの橙色に染まる部室に通い続けた。窓際のパイプ椅子に恩人の気配を感じながら一番遠い壁際の席で、ただ一人、本の虫になり続けた。
そうして、松尾は文芸部室で二度目の夏を迎えようとしていた。
梅雨に入り、曇天が続く日々。
「吉野先輩が涙を流していたあの日と同じだな」なんて、乾いた笑みを漏らしながら、松尾は旧校舎の階段を上る。
じっとりと湿気を含んだ空気は体にまとわりつき、低気圧のせいか、こめかみの奥がズキズキと重く痛んだ。
灰色の雲に覆われた空を見上げるたび、あの十一月の末の、冷え切った部室の空気が蘇る。松尾は一歩一歩、自分の足音だけを響かせて最上階へと向かった。
いつものように、鍵の開いた文芸部室のドアに手をかけ、押し開ける。
瞬間、松尾の思考は完全に停止した。
部屋の奥。窓際。吉野が立ち去って以来、うっすらと埃を被ったまま、もう誰も座ることはないと思われていたあのパイプ椅子に、誰かが座っていた。
小柄な背中。大きめの制服のブレザーの肩が小刻みに、不規則に震えている。
両手で顔を覆い、その指の隙間から、ぽたぽたと雫が床へと零れ落ちていた。
「――っ、」
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
頭の奥の痛みが一気に鋭くなり、視界がちかちかと明滅する。
そこに座っているのが、見知らぬ女子生徒であることは、すぐに分かった。頭では理解している。けれど、その俯き、涙を流すシルエットは、あの冬の日に松尾が置いてきてしまった、吉野の姿とあまりにも残酷に重なり合った。
当時の耳の先まで痛くなるような寒さがフラッシュバックして、ぶるっと背筋が震える。
そんな松尾が入り口で硬直している気配を察したのか、女子生徒はびくりと背中を強張らせた。
慌てて顔を上げ、涙を袖口で拭いながら、怯えたような目で松尾を振り返る。影の薄い文芸部。勧誘活動なんてしていなかった廃部寸前の部活だ。誰にも見られずに泣けると思って隠れていたのだろう。
「あ……すみません、ごめんなさい……っ」
後輩は蚊の鳴くような声で謝罪を口にすると、居たたまれなさに背中を丸め、すぐにでもこの部屋から逃げ出そうと、パイプ椅子から立ち上がった。松尾の横を通り過ぎて、去ろうとする。
――その、立ち去ろうとする後ろ姿。
松尾の脳裏に、あの日、虚空を掴んだ自分の手のひらの感覚が、鮮烈に、痛烈に呼び覚まされた。
何度も、何度も脳内で反芻し、自己嫌悪とともにすり減ったあの後悔を、ここでまた繰り返すのか。
「……っ、あのっ!!」
松尾の決死の声は、見事に裏返った。静寂に守られていたはずの喉が、引き裂かれるように悲鳴を上げる。だが、恥ずかしさなんてどうでもよかった。今ここで声を上げなければ、今までの後悔は嘘だったことになると思った。ここでまた「吉野先輩」を裏切りたくなかった。
それだけの必死さで、松尾は喉から掠れた声を絞り出していた。
女子生徒は弾かれたように足を止め、驚いた顔で振り返った。その拍子に、彼女の涙さえ一瞬だけ引っ込んでしまったようだった。ドアのノブに手をかけたまま硬直する彼女に向けて、松尾はテンパる思考の底から、どうにか一つの言葉を搾り出す。
「こ、ここに。いていいですから……!」
それは、かつて他者との摩擦に疲れ果てた松尾が、この部屋で吉野に最初に差し出された、あの救いの言葉だった。
松尾にとって他者を救う唯一持ち合わせた言葉は、吉野に与えられたその言葉以外にはなかったのだった。
女子生徒は目を丸くしたまま、しばらく呆然と松尾を見つめていた。涙で濡れた睫毛が、微かに震えている。
松尾はバクバクと五月蝿い心臓の音を聞きながら、じっと床を見つめて身を硬くしたまま、両の拳を強く握りしめた。
しばらくして、小さな足音が、ゆっくりと部屋の奥へ引き返していくのが聞こえた。
恐る恐る松尾が顔を上げると、彼女は窓際のパイプ椅子をずるずると引きずり、窓際と本棚の影になった場所へと移動させていた。そして、松尾に背を向けるようにして、再びそこにちょこんと腰を下ろした。
深く息を吐き出しながら、松尾もまた、自分の定位置である入口傍のパイプ椅子に腰を下ろす。
鞄から文庫本を取り出したところで、再び小さな、ずびずびという鼻をすする音が聞こえ始めた。
松尾は何も言わず、目線すらも寄越さず、栞の挟まった頁を開いた。女子生徒の事情も行先も聞きはしない、ただ、自分の本を開き、活字の海へと意識を沈めていった。
かつて吉野がそうしたように。恩人が彼にしてくれたように。
あれほど心地いいと感じた空間は、今はとても息苦しい。かつての吉野のように、自然に振る舞えるはずもなかった。
歪で、奇妙で、誰が見ても異質な空間だけれど、それでもこれは松尾が出来る精一杯の救いだった。
他者との摩擦が一切ない、かつて松尾が心地いいと感じた空間を再現したかった。
松尾は目線で文字を追いながら、その内容が全く頭に入ってこないことを自覚しながら、ページを進めていく。
でも、それでも。
今確かに松尾は、十一月から凍てついていた文芸部室の時間を確実に押し進めていた。
吉野の真似事が果たして彼女を救えたのか、松尾には分からなかった。
一頻り涙を流したあと、「ありがとうございました」と一言残して部室を後にした女子生徒は、その日以来、部室には現れていない。
しかしあの日以来、松尾は吉野の背中を追い続ける夢を、不思議と見なくなっていた。彼なりの清算を、ようやく済ませることができたのかもしれない。自分にできる等身大以上の振る舞いをしたことが、決して間違いではなかったのだと、心のどこかで理解していた。
自分の行動の答え合わせができたのは、それからさらに数ヶ月が経った頃。
鈴虫が鳴き、夏の残火を感じさせる晩秋。吉野の幻影が色を濃くする季節のことだった。
文芸部室のドアが、遠慮がちに、控えめに開く音がした。
松尾はゆっくりと視線を文庫本から上げた。
隙間から顔を覗かせるようにして、部室内の様子を窺っている少女――それは、あの曇天の日に、この部屋で時間を共有したあの女子生徒だった。
「あ……」
ドアを開けた正面、いつもの席でパイプ椅子に座る松尾と目が合い、彼女は気まずそうに、けれどどこかホッとしたように目を逸らした。
「その、前はありがとうございました。えと……」
女子生徒は少しだけ口ごもったあと、制服の裾をぎゅっと握りしめて、小さな声を絞り出した。
「今日も、いいですか」
是非も無かった。松尾はこくりと頷いた。
小さな声でお礼を言って、女子生徒はやや駆け足で、以前涙を流していたパイプ椅子に向かうと、ちょこんと腰を下ろして窓の外を眺めた。
だが以前と違い、号泣するようなことは無かった。ただ椅子に座って窓の向こうにある校庭を眺めながら、秋空を見上げながら、黄昏ているようだった。
松尾は視線を女子生徒から外して、文庫本に向けた。
活字の海へと再び潜ってみても、あの夏の日のように胸が重くなることはなかった。呼吸を妨げられるような、あの息苦しさも、もうどこにもない。
果たして女子生徒が本が好きなのかどうかは分からないけれど、文芸部室を心の安らげる場所と思ってくれたのだとしたら、幸せな事だと思った。
吉野が松尾に伝えたこの旧校舎の一室の意義を、自分も果たすことができたと思えた。
そんな松尾の姿が振り返った女子生徒の目に映る。
女子生徒の潤んだ両の眼には、松尾のどこまでも穏やかで、小さく微笑む姿が反射していた。
そして、また十一月が巡ってきた。
いつも吉野の幻影が見えていた窓際のパイプ椅子はもう無い。
放課後の旧校舎最上階。押し開けた文芸部室のドアの向こうを満たしていたのは、かつての耳の先まで痛くなるような凍てついた空間ではない。
シュンシュンと小さな音を立てる石油ストーブの、どこか懐かしい爆ぜるような熱気。温められて部屋いっぱいに膨らむ古い紙の香りと、そして、鼓膜を心地よく震わせる、女子のはしゃいだ喋り声だった。
目の前で繰り広げられているのは、いつの間にかこの部屋の住人となっていた、二人の女子生徒の楽しげな会話だった。
2度の来訪後、女子生徒は頻繁に文芸部室に通うようになっていた。いつの間にか友達を1人引き連れて、当たり前のように文芸部室の中央で会話をしている。
文芸部員になったわけではない。そもそも松尾は彼女たちに入部希望用紙を渡してはいない。だけれど、松尾は彼女たちを咎めて追い出すような真似はしなかった。
この文芸部室では、肩書きなんてなんでもいいのだ。
松尾はといえば、入り口傍のいつもの定位置で、どこか居心地悪そうに、けれどそっと目を細めながら文庫本に視線を落としていた。
彼女たちの声が気になって集中できないのは事実だったが、彼女たちの会話は大人しく塞ぎ込みがちな人間性が垣間見えて、少しだけ親近感さえ覚えてしまう。
他者との摩擦を恐れて、ただ静寂だけを求めていたはずの自分が、今や声がすぐ近くにある空間に身を置いている。それは少しだけ気恥ずかしく、落ち着かない。
「松尾先輩!」
女子生徒の1人に名前を呼ばれて、視線を彼女に向ける、
「松尾先輩は読むだけなんですか? 書いたりしないんですか?」
「……書かないね」
「えー、もし書いてるなら見てみたかったのに」
残念そうに唇を尖らせる彼女たちを見て、松尾は困ったように小さく苦笑した。
書く。物語を、書く。
確かにそんな発想は、これまでの松尾には端から無かった。幼少期からただ読書が好きで、他者との摩擦から逃げるように活字の海に潜ってきた自分は、どこまでいってもただの観測者であり、一人の読者でしかなかったからだ。
僕なんかが言葉を紡いでどうなるというのか。そんな後ろ向きな思考が、いつものように脳裏を掠める。
――けれど、もし。もしも、僕が何かを書くとしたら。
やはり、吉野先輩のことで間違いないだろう。
あの冬に置いてきてしまった、彼女との物語を。
外が暗くなり、女子生徒たちが文芸部室を後にするのを待ってから、松尾はおもむろに立ち上がった。
向かったのは、部屋の隅に置かれたまま、入部してから一度も起動されたところを見たことがない古いデスクトップパソコンの前だった。
今日まで、何のために置かれているのか考えたこともなかった。けれど「執筆する」という新しい視点を持った今、松尾の脳裏には、ひとつの確信めいた使い道が浮かび上がっていた。
埃を払って主電源を入れると、低い駆動音とともに、とうにサポートの終了している古いOSの起動画面が暗がりにぼうっと浮かび上がる。松尾はパソコンの前にパイプ椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
冷え切ったマウスを、慣れない手つきで操作する。
デスクトップの片隅に置かれた、何の変哲もないショートカットフォルダ。その無機質なアイコンを見つめながら、松尾は「やっぱり」と胸の内で呟き、震える指でマウスポインタを重ねてダブルクリックした。
開かれたウィンドウの中に、数多くのテキストファイルが整然と羅列される。
ファイル名は、すべて「人名」だった。
中には、名前の末尾に「_2」「_3」と番号が振られているものもある。同一の人物が、何度もこの場所で言葉を紡ぎ、作成してきた形跡だとすぐに分かった。
タイムスタンプの列へ視線を移す。毎年、数個のテキストファイルが生成されていた。けれど、年を追うごとにその頻度は下がっていき、もっとも新しいタイムスタンプは、去年の十一月。吉野が部室で孤独に震えていた、あの時期で止まっていた。
その、最後に遺されたファイルのタイトルは『吉野華奈』。まぎれもない、何度も心の中で叫んだ恩人の名前だった。
「……ふぅ」
自然と息が漏れた。思ったよりその吐息は重かった。
勝手に作品を見るのは忍びない気がした。創作物は必ずしも誰かに見られるために創造される訳ではない。
吉野が遺したこのテキストファイルは、果たして松尾が読んでしまっていいものなのか分からない。
だから松尾は何度も深呼吸をしてから、そのファイルをクリックした。
――内容は、ケーキの話だった。
特にモンブランについて書かれた作品だった。普段の吉野からは想像もできないほどファンシーで、可愛らしい表現が散りばめられた内容に、松尾は最初、素直に「可愛らしくて下手な文だ」と思った。
だけど、読み進めていくうちに、松尾はどんどんその世界に呑み込まれていく。それが、何かを隠喩した作品であることが分かってきたからだ。
文体の節々から這い出てくる、感情の端くれ。それが少しずつ、少しずつ増えていく。意図的な表現なのかどうか、作者である吉野がいない今、正解は分からない。けれど松尾には、それが技術的な演出であるとは到底思えなかった。
物語が進むにつれて、どんどん表現が崩れていく。当初に抱いたファンシーでデフォルメされた可愛らしいケーキたちのイメージが、ドロドロと不気味に溶けていく。文章としてもぐちゃぐちゃになり、それはもう、作品と呼ぶにはあまりにも形を成していないものになっていく。
でも、松尾は読む手を止められなかった。
なぜなら、そこに書き殴られたと言っても差し支えない「作品もどき」は、吉野の慟哭に他ならなかったからだ。
去年の十一月。彼女が抱えたあまりにも重い事実が、比喩と感情の限りを尽くして綴られていた。それを読み切る頃には、松尾ははぁ、はぁ、と細かく引き攣った呼吸を繰り返していた。整然と書かれ、校正された文章からは決して得られない、剥き出しの感情の奔流に、松尾の額からじっとりと汗が流れた。
「……吉野先輩……っ」
悟ってしまった。
当時、仮に吉野の背中を掴み、ここにいていいと伝えることができていたとしても、自分には何もできなかっただろう。それが痛いほど伝わる作品だった。
松尾ごときが解決できる問題でもないし、背負ってやれるような問題でもなかったのだ。
歪む視界のまま、もう誰も座ることのない、窓際のガランとしたスペースに視線を移す。
じわじわと視界は水面を介したように歪み、その滲んだ光の向こうに、かつてパイプ椅子に座って静かに読書をしていた、吉野の姿が鮮烈に浮かび上がる。
「吉野先輩……!」
強く握りしめられた松尾の手の甲に、ぽつり、と。
松尾の凝縮された感情が落ちて弾けた。
三月の、雲一つない青空から春の柔らかな光が降り注ぐ、卒業式の日。
式の喧騒から逃れるようにして、松尾は最後にもう一度だけ、旧校舎の最上階へと続く階段を上っていた。胸元には、少し気恥ずかしい卒業生の証である花が揺れている。
木製のドアの前に立ち、松尾はそっと手をかけた。
かつてこのドアを開けるときは、様々な感情があった。あるときは恩人の幻影を追って、あるときは後輩の声に戸惑いながら。
けれど今、ドアを押し開ける松尾の心は、驚くほど静かだった。
今の文芸部室には相変わらず本とホコリの香りがあるけれど、かつて松尾が求めた外界から隔絶された静寂は無かった。
今日に至るまで、女子生徒が連れてきた友達の他にも、いつの間にか新しい顔ぶれがいくつか増えていた。春には正式に新入部員も二名入り、廃部寸前だった文芸部室は、気がつけば放課後になると誰かしらの声が響く場所になっていた。
お菓子の袋が開く音、他愛のないクラスの愚痴、おすすめの小説を教え合う弾んだ声。
松尾が何よりも恐れていたはずの他者との「摩擦」が、この狭い部屋の中にはごく自然に満ちていた。
最初こそ、松尾はその変化に強い居心地の悪さを感じていたし、自分と吉野の聖域が侵食されていくような気がして、いつもの定位置でそっと眉をひそめる日もあった。集中して本を読めないことに、小さなため息をついたこともあった。
――けれど、いつからだろう。
その、他人の体温や声がすぐ近くにある空間を、どこか愛おしいと、好きになってしまっている自分に気づいたのは。
誰かが笑うとき、ストーブの上でヤカンがシュンシュンと鳴るとき、古い紙の香りに混ざって微かに甘いお菓子の匂いがするとき。松尾の胸の奥をずっと縛りつけていた冷たい孤独は、その賑やかさによって、少しずつ、けれど確実に解きほぐされていた。
傷ついた人間が逃げ込んでくるシェルターから、生きていく人間たちが寄り添い合う居場所へ。
それは、かつて吉野から差し出された「ここにいていい」という言葉を、想いを守れた結果なのだと思えた。
誰もいないガランとした部室の、すっかり埃の払われた中央のテーブルを見つめながら、松尾は小さく微笑んだ。
思い耽る間もなく、バタバタと廊下を激しく走る足音が聞こえてくる。
松尾がゆっくりと文芸部室の入り口に振り返った、その瞬間だった。
「「「松尾先輩!!」」」
勢いよくドアが開け放たれ、数人の後輩たちが眩しい笑顔で部室になだれ込んできた。
やれやれ、と松尾は苦笑交じりに肩をすくめて、「どうしたのさ」と声をかける。
「お祝いしようとしたのに、校庭のどこにもいないんですもん!」
「もう帰っちゃったかと思いましたよ!」
「一応、お世話になりましたからね、一応!」
各々が好き勝手に口を開くものだから、まるで行き先のない弾丸のように言葉が飛び交い、聞き取れない。松尾は「僕は聖徳太子じゃないんだけど」とベタなツッコミを入れながら、小さく微笑んだ。
まさか自分の人生に、こうして他人に祝福されるような日が来るなんて、かつての自分は想像すらしていなかった。
――いや、他人じゃ、ないよね。
松尾はそう心の中で小さく訂正すると、自分の鞄を開け、中からクリップで丁寧にまとめられた数十枚の原稿用紙を取り出した。それを、あの始まりの女子生徒の目の前へとそっと差し出す。
「これ、僕の書いた作品」
一瞬、部室の時が止まった。
一拍の静寂のあと、――えーっ!!! という全員の地響きのような驚嘆の声が、古い木壁を震わせた。
よっぽど松尾が筆を執ったことが驚きだったらしい。実際、今日に至るまで何度も「先輩も書いてくださいよ」という催促を受け流し続けてきたのだ。図らずも、それは最高に不器用で、最高のサプライズプレゼントとなったようだった。
まるで宝物を取り合うように、松尾の作品を中心にバタバタと騒がしく、後輩たちは文芸部室を出ていく。
遠ざかる愛おしい喧騒を聴きながら、松尾は誰もいない窓際のスペースを静かに見つめた。
「……ありがとうございました。吉野先輩」
「――どういたしまして」
背後の、部室の入り口から聞こえたその返事に、松尾は首を痛めるほどの勢いで振り返った。
そこに、あの人が立っていた。
白と水色のワンピースを着て、上からレース柄の上着を羽織っている。優しく微笑む吉野は、未成年の少女が成人の女性へと変わる、二年の歳月を確かに感じさせる雰囲気をまとっていた。
「……よ、よしのせんぱい……」
近くで見れば、どこかくたびれたように見える、苦労の隠せない顔をしていた。過酷な現実と戦ってきた形跡が、その輪郭に影を落としている。けれど、かつて松尾に向けられていたあの柔らかく穏やかな笑顔だけは、あの日のままだった。
「卒業おめでとう、松尾くん。すっかり成長しちゃったね」
「……吉野、先輩」
「さっきすれ違った子たち、新しい文芸部員? まさかあんな元気な子たちが部員になるなんて。この文芸部も安泰だね」
「吉野先輩」
「あんなに人見知りだった松尾くんが、今では私の顔をしっかり見て名前を呼べるようになってるし。ほんと、若い子の成長ってのは――」
「――吉野先輩!!」
遮るようにして、松尾は飛びかかるように吉野の肩を両手で掴んだ。
指先に触れる、確かな人間の体温と、衣服の感触。あの日、すり抜ける幻影を前にして、どうしても掴むことのできなかった彼女のすべてを、今度こそ取り戻すように、強く、強く力を込める。
「あらま。松尾くん。どうしたの」
「どうしたのじゃないですよ……っ!」
「……そうだね。ごめんね、いきなりいなくなっちゃって」
今にも泣き出しそうなくらいに、顔をクシャクシャにして自分を凝視する松尾を見て、吉野はそっと目を伏せた。
「色々あってさ。その、ごめんね、ほんとに」
「……いえ、それはいいんです」
「……うん。……一人で大丈夫だった?」
「はい。吉野先輩のおかげで、大丈夫でした」
「なに、どういうことなの」
ふふ、と吉野が笑う。
「僕、ずっと独りで、自分のことなんて何の意味もない無価値なやつだと思ってたんです」
他者の感情に振り回されるのが怖くて、ただ独りであることを強要されていると思い込んでいた。そうやって外界を閉ざし、逃避している自分を、ずっと心のどこかで蔑んできた。
「だけど、吉野先輩に出会って、僕も誰かとここにいていいんだって思えたんです」
ただ他者を受け入れることが怖かっただけの松尾に、吉野は静寂と安心をくれた。
「吉野先輩のおかげで、僕は、誰かの居場所になれました」
吉野の真似をして、吉野の背中を追って、彼女のようになろうともがくことで、松尾は初めて、他者と共存することができた。
「……吉野先輩のおかげなんです」
決壊するように漏れ出た両目の雫を、松尾はぐしぐしと制服の裾で拭う。「そっか……そうなんだね」と吉野は答えて、松尾の頭に優しく手を置いた。
「僕は、この文芸部室に根付く雑草なんです」
「……え?」
「僕にはこの場所しかなくて、この場所でしか満足に呼吸出来なくて。ずっとここに縮こまって、蹲ってきた、何の変哲もないただの草だったんですよ」
吉野の作品を読み、思い知らされた。自分ごときが他者を能動的に救い上げるなんて、傲慢なことだと。決して手を伸ばして助けたりなんて出来ない。自分の矮小さに。
「でも、僕は……誰かが傷ついた時、悲しかった時、辛かった時。目を伏せて、俯いて、項垂れたその人の視線の先に、ひっそり咲く花になれました」
誰もが手に取るような華やかな花ではない。誰も目にも留めない雑草かもしれない。それでも、立ち止まった誰かの足元で、一緒に寄り添うように咲く花に。
曇天の下、項垂れていたあの女子生徒の足元に、松尾は勇気を持って咲いてみせた。かつて吉野が、松尾の元でそうしてくれたように。
「文学的だね……。すっかり文芸部員だ」
「はい。三年間いましたからね」
「でも、今日で卒業だね。君の根っこは、これからどうするの?」
松尾は、ぐっと決意の籠った力強い目で、吉野を真っ直ぐに射抜いた。
「僕の根っこは、最初から最後まで動きませんよ」
「え? でももう卒業しちゃうから、文芸部も引退でしょ?」
「ええ。だから、部室の話じゃないんです」
「――僕は最初からずっと、吉野先輩の足元に咲いてますよ」
吉野がいたから、松尾は文芸部員になった。吉野がいたから、この場所に根を広げてきた。
三年前も、二年前も、一年前も、今も。ずっと、ずっと。
梅の芽吹きが次の時代を予感させ、時の歯車は二人を置き去りにせず回り続ける。読み進められた頁には、まだまだ先が続く。
後輩たちの為に紡がれた、松尾の渾身の物語のタイトルは――――。




