教科書に載っているとはいえ
ある教室の隅で、ひとりの少年が机に肘をつき、鉛筆をくるくると回していた。教室の窓の外では、グラウンドの草が風に揺れ、体育の授業の声が遠くでこだましている。彼の前には、分厚い教科書とノートが広げられていたが、どちらもまっさらだった。ページを開いても、何も頭に入ってこない。いや、言葉の意味はわかる。ただ、それが自分の世界とはどこか切り離されているように感じてしまうのだった。
「ここをこうして……で、この公式を使って……」
隣の席の優等生が、小さな声で自分に説明を繰り返しているのが聞こえた。ノートは丁寧な文字で埋め尽くされていて、カラフルなラインマーカーが規則正しく引かれている。そこには何の無理もなさそうな秩序があった。だが彼には、それが異世界の言語のように見えた。どこから手をつければいいのか、それすら見えてこない。
先生は言った。「教科書をちゃんと読めば分かるから」。だけど、「ちゃんと読む」ってどういうことだ? 一語一句を追えばいいのか、重要そうなところを繰り返せばいいのか。目で追っているうちに、意味が形を失っていく感覚に襲われる。読み終えても、結局何も残っていなかった。
「自分で考えて、自分で学べ」と言われることがある。だが、考えるための足がかりさえ知らされていないとき、人はどこに登ればいいのだろう。崖の下に放り出されて、「登れ」とだけ言われたような感覚。ロープも、梯子もない。ただ手を伸ばせ、とだけ。
彼は不意に机の下で鉛筆を落とした。拾いながら、床に散らばった消しゴムのカスをぼんやりと眺めた。何も消せていないのに、なぜかこんなにカスだけは出ている。なんだか今の自分そのもののような気がした。
夜になって家に帰ると、母親は「宿題やったの?」と訊いた。うなずいても、信じているのか信じていないのか、反応はどちらともつかない。机に向かっている姿を見せれば、親は安心する。でも、姿だけで勉強したことにはならないのに。自分の中で何が変わったわけでもないのに。
翌日、クラスのある子が「この問題、めっちゃ簡単じゃん」と笑った。答えを聞けば「なるほど」と思う。だが、じゃあ次に同じような問題が出たら自分で解けるかといえば、またどこから始めればいいのか分からない自分がいる。
先生は言う。「習ってるからできるはずだ」。でも、本当に「習った」とはどういう状態のことを指しているのだろう? 黒板に映された数式を一緒に見たこと? 教科書を開いたこと? それとも、誰かが丁寧に「考える道筋」を教えてくれたこと?
彼には、それが分からなかった。いや、きっと誰も本当には教えてくれていなかったのだ。
教科書に載っていることは、確かに正しい。だが、それを使えるようになるには、その「正しさ」がどう世界と結びついているのかを知る必要がある。なぜそれが必要なのか、どう使えばいいのか、それを誰かに問い、試し、失敗し、やり直す時間が必要だ。その時間を知らずに、「読んで覚えろ」と言われても、まるで地図のない国で旅をしろと言われるようなものだ。
彼はそれでも、教科書を閉じなかった。ただ、閉じる代わりに、誰かに訊くことを少しずつ始めてみた。「なんでこれはこうなるの?」と。はじめは答えを返されても意味が分からなかったが、それでも聞くことをやめなかった。聞くということは、自分の知らなさを認めることだった。恥ずかしさもあった。けれど、聞かないまま「分かったふり」をすることのほうが、ずっと怖いことだと気づいたのだ。
やがて彼のノートには、汚い字でびっしりと書き込みが増えていった。間違いだらけのメモ、理解できなかった言葉、あとで質問するための印。教科書の言葉を鵜呑みにするのではなく、それを自分の言葉に言い換えたページが、ひとつ、またひとつと増えていく。
「分かる」はゴールじゃない。「分かろう」として動いた、その過程にこそ価値があるのだと、彼は後に語ることになる。きっと彼自身も、誰かに教える日が来るだろう。教科書に載っていない「学び方」を、少しずつ、手渡すようにして。