なぜ「無差別の凶行」の犯人は、いつも男なのか?
「誰でも良かった」
この言葉には、どのような意味があるのか?
なぜ誰でもいいのか?
連続殺傷や、銃の乱射。車での暴走などの事件が起こった際、考えるまでもなく犯人はほぼ「男」である。これは別に日本に限った話ではなく、世界中を見渡しても、おそらく99%近くは男の犯行だと思われる。―― 女が単独で引き起こした無差別事件は、とんと聞いたことがない。
なぜ行き場を見失った男は「対社会」となるのか?
対社会といえば、かっこよくも聞こえるかもしれないが、これは大きな勘違いだ。狙われる対象の多くは「女こども」で、自分を抑圧してきた社会でいえば、弱い側の人間たちだ。「他人の痛みが分かるのは、痛みを経験した人間だけ」などという言葉もあるが、痛みを理解した上で、さらに弱者をつけ狙う。
本当に「誰でも良かった」のか?
誰でもいいのなら、なぜ強者・権力側の人間は襲わないのか? ヤ○ザの事務所あたりに突撃して「誰でも良かったんで」と言った猛者が、歴史上に、ひとりでも存在するのだろうか?
「お前、なんでこんなことをしたんだ?」
「……」
「誰でも良かったのか?」
「……はい?」
女が無差別で他人を襲わないことに、その「実行能力」を指摘する人間がいる。女には複数をまとめてやるだけの能力がないという指摘。だが、本当にそうだろうか? 車での突撃なら女にだって出来るし、海外なら銃もある。実際に女による銃殺事件なども、海外では珍しくもない話だろう。
となると「脳の仕組み」か?
まず最初に思い浮かぶのは、攻撃性を誘発するテストステロンの値。しかし、こういった無差別事件を引き起こした過去の犯人たちの中に「マッチョなやつ」がいたという記憶はない。だとすれば、テストステロン値は関係ないのか? いや、筋トレなどで活用されなかった「行き場のないテストステロン」が攻撃性を誘発した?
女の犯行の多くは、怨恨。
たとえそれが逆恨みであったとして、顔見知りでない可能性は極めて低い。一見、無差別に見えるカレー事件にしても、地域コミュニティに対する恨みか(冤罪説もけっこう根強いので、例に出すのはあれだが、人数いった事件といえば、これくらいしか思い浮かばないのも事実)。
ある意味、女の凶行には一定の信頼性がある。
それは「不可視の角度」からくる凶刃ではなく、たとえ歪んでいようとも、なにかしらの「縁」が存在するからだ。
「縁」?
ふと思いついたのは、無差別の事件を起こす人間の多くは、おそらくこの「縁」に関する感覚が希薄なのではないのか? 「断絶」の末に社会を怨む。だから、これから先に「数多くの縁」を持つであろう子供たちや、すでに「縁」を大事にして生きている女たちを狙う?
いや、これは少々詩的に過ぎた。
彼らは単純に生物的な「弱者」を狙っているに過ぎないのだから。
ふと、リストカットが頭に浮かんだ。
いわゆる「自傷行為」であるが、男でリストカットの痕が多数ある人間というのは、あまりお見掛けしたことがない。
女の「攻撃性」というものの多くが、自分自身とその身近なサークル内で収まってしまうことのヒントのようにも思える。そういえば「パーソナルスペース」も男より、かなり半径が小さいんだったっか、女は。
やはり「教育」も関係があるのだろう。
女が幼少期に受ける情操教育の多くは、男のそれよりも圧倒的に「抑圧的」だ。最初にハメられた枷の効果が「永続的な呪い」となり、その半径を狭めている可能性がある。「現代はそうでもない」と言ったところで、遺伝子レベルでの書き換えは、おそらくまだそれほどは進んではいまい。
「誰でも良かった」は、誰でもいいわけではない。
対象の選考には、犯行者にも「言語化が出来ない」、何らかの理由がそこにはある。無意識の視線の誘導の中にも、凶行を止め得る「強者」は意識的に避けている節があるようにも映る(銃乱射ともなると、次元が変わって来る話だが)。結果として、女こども、老人の被害割合がランダム値よりも高くなる。そんな気がする()。
しかし、犯人は実際に「誰でも良かった」なんて言っているのかね?
警察が、説明が付かない事件には、すべて「誰でも良かった」という言葉で、勝手に発表しているに過ぎないのではないのか?
「言語化出来ない」ことと、「誰でもいい」ということの間には、大きな隔たりがある。永遠にこの謎が解けないのは、やはり警察のせいなのかもしれない(意図的にせよ、そうでないにせよ)。―― なんて、暴論で本稿を締める。いつまで語っていても、結論は出ないので。