あの頃の可愛さ
僕が死んでしまった時には僕の両親はきっと安らかな屍の中に、現在の僕に限らない様々な愛おしい姿を思い描くだろう。それは僕には到底描くことの出来ない、幼少の頃の姿とかである。その時には、いつしか老けてその面影も消えてしまうであろう僕の姿は既に断絶されているから。
精神病理的にも、幼少の頃と夢の中とはすごく似ているらしい。自愛に溢れた僕の夢とはまた全然違う、本当にかけがえのないものをあの頃僕は持っていた。そして不器用に零されていた湯水は何よりも清らかであったそうだ。まるで神話のように。
ああ、僕は美しい。そう、どこまでも。この麗しき美貌や内情を授かったのはやはり運命であろう。神話の時代から語り継がれてきた美しさは僕自身の現在にその面影が認められる。ルッキズムやらナルシズムやらの現代的で生来の根本的な本質から目を背け続けた思想からは乖離した僕の美しさはまさに自由である。言葉というものがなかった時にすら、僕の自由は担保されるであろう。
幸福は発見であった。なのに人々は信じることを知らない。真実は段々と勝利する。人々は年老いてそれを知る。孔子の発見も、僕にとっては遅すぎた。
ああ、美しい真実。what a beautiful rain.
僕は、弛まぬ僕の探索が結晶となる夜は近いことを、年十五にして知った。