#7 拒絶
「起きなさい、シロちゃん」
目を開けた先にいたのは、精悍とした目だった。思わず息を飲む。
縹ユイ――目の前に広がるのは、昨日、『練習』に行ったきり戻らなかった少女である。
シロはシーツに張り付いたまま、キシリと表情を固めた。
「ユイさん……?」
「おはよう」
「お、おはよう……」
「調子はどう?」
「え、調子?」
「体調を崩されると困るから」
ユイはシロの上から布団を取り除くと、足元に畳んでいく。
シロはといえば、頭の上にクエッションマークを浮かべていた。分からなかったのだ、なぜユイがシロの部屋にいるのか。そもそもシロを起こす意義は、ユイにはないのだ。
「で、どうなの。体調は」
「えっ、あう、元気、だよ?」
しどろもどろに応じれば、ユイは満足そうに頷く。とはいえ健康な肌が笑みを浮かべることはなく、ひどく安定した動きで立ち上がった。
『スポーツ』に精力的に取り組んでいるからだろうか、『立ち上がる』という誰にでもできそうな動きにも乱れ一つなかった。
思わず見惚れていると、ユイは柳眉を軽く顰める。
「早く着替えなさい。朝食ができているわ」
「えっ、朝食?」
シロはぐるりと部屋を見渡す。しかしそこに『朝食』は見当たらなかった。
「どこにあるの?」
シロの食事といえば、自らの『家』で食べることが常識であった。それ以外の場所における食事は一度も摂ったことがない。
するとユイは呆れた様子で息を吐くと、
「外出許可をもらっているわ。今日は別の部屋で食べるの」
「べつ、の?」
「そう」
反芻するシロと頷くユイ。
二人の間に再度静寂が下りる。
ユイの面持ちは堅く緊張しているようである。シロも同じであった。
初めて話す、トモミ以外の『人間』。昨日、不言コトニや二人静ムツキとさんざん遊んだが、それでも、十数年と積み重ねてきた未知の谷は、そう簡単には埋められなかった。気の利いた話題を提供する、という発想すら浮かばない。
「えっと、お家の外に出る、の?」
「『部屋』の外に出るのよ。……いつまで呆けているつもり、早く仕度なさい」
それだけ言うと、ユイはくるりと踵を返して去って行く。後を追う髪が白い光を照り返す。
その姿は、まるでお伽話に聞く女王様のようだった。他国に靡かず、民に媚びず、孤高を貫く凛々しき王。その行く先は繁栄か破滅か――彼女の歩く桃色のカーペットが、さながら鮮血のごときレットカーペットに見えて、気づけばシロはベッドから飛び降りていた。
「ま、待って……!」
はっしと掴む腕。そこには、堅牢と女性らしいしなやかさを兼ね備える筋肉があった。トモミとは違う、力強い腕――驚愕のあまり手を引けば、怪訝そうな目が見降ろしてくる。
「何?」
冷たい目。玩具を見つめるようなコトニとも、好奇に歪むムツキの目とも違う。シロのことを何も思っていない。
シロは初めて拒絶を知った。
「……ううん、何でもない」
一歩、後退する。素足の裏に感じるカーペットが、勇気を出せと囁く。
そう、彼女は怖い人ではないのだ。何せトモミが選んだ嫁候補だ。決して危険はない。ないはずなのに、シロの背はじわじわと気色悪い汗を噴き出す。
足元に視線を落としたまま、うんともすんとも言わなくなったシロ。それを見かねてか、ユイは観念したように溜息を吐くと、爪先の向きを変えた。
「服は用意してあげる。早くその寝癖だらけの髪を何とかしなさい。……今日はどんな服の気分?」
ウォークインクローゼットを開け、ユイは尋ねる。
その背中をぽかんと眺めていると、とうとう焦れたのか、白いブラウスとモカ色のニットカーディガン、黒いタイツ、少し間を置いてショートパンツとレッグウォーマーが投げられる。
床に落ちたそれを一つ一つ拾い上げたシロは、未だクローゼットの中を物色し続けるユイの背に目をやった。
胸にあるのは安堵だった。やはり悪い人ではなかった。トモミとは違って、愛情表現が下手なだけなのだ。目を細めると、ふとユイがこちらを向いた。
「早く着替えなさい、みんな待っているのよ」
「う、うん……」
どきりとした。軽いはずの衣類たちが、何冊も積み重ねた本のようにずしりと細腕に圧し掛かる。丁寧に編み込まれたモカ色の毛糸に指先がめり込んだ。
クローゼットの前からじっと、怪訝そうに見つめるユイ。その視線はますますシロを追い詰める。
首元に結ばれたリボンを細い指が引っ張り、円を潰していく。着替えを乗せる左手も、リボンを解く右手も、ただ頼りなさげに揺れるばかりで、先に進もうとはしなかった。
はらりと舞い落ちるリボンを怪訝そうに眺めていたユイは、ふと思い当たったように呟いた。
「まさか着替えさせて、なんて言わないわよね」
「…………」
俯くシロ。
シロは自分で着替えることができなかった。