聖なる夜には早すぎる
お越しいただきありがとうございます。クリスマスということで、特別編です。
本作は、私の拙作「この恋だけは終わらせない」(https://ncode.syosetu.com/n9337fz/)と、「乾いた酔いでも恋と笑って」(https://ncode.syosetu.com/n6090gi/)の続編となっております。
本作のみでもお楽しみいただけると思いますが、前作を併せてお読みいただけると、より楽しめるかと思います。
それでは、少しでもお楽しみいただけると幸いです。
「メリークリスマス!!」
街中で流れるそんな言葉を聞いて、普通はどう思うのだろう。デートが楽しみだな、とか?上手くやれるだろうか、とか?まぁなんにせよ、恋人との甘い甘い夜に、胸をドキドキさせてキュンキュンしちゃうんだろう。
でも、私の場合はちょっと違うのだ。
私はもう付き合ってる人なんていないし、今日は家に閉じこもろうと思っていた。それに、新しい恋愛にはちょっと早すぎる。大体、クリスマスが何だというんだ。何がメリーだよ、楽しくも何ともないじゃないか。……それに、まぁ、いらないことを思い出してしまうから。……ある意味胸をドキドキさせて、胃がキュンキュンしてしまうだろうから、別に違わないかも。うん。
「美奈ちゃん!おまたせー!行こっか!」
見知った女の子が私に声をかけてくる。あぁ、今日も眩しい笑顔だ。空に浮かぶ小さく無力な月なんかよりも、よっぽど眩しい。眩しすぎて目が眩むほどに。……なーんて、嘘嘘。この笑顔で、私は何度救われたことか。今日だって、私を誘ってくれなければ、今頃鬱屈とした夜を独りで過ごしていたことだろう。
「えぇ、行きましょうか」
だから、私は彼女に負けじと笑い返す。……それなのに彼女は少し悲しげな、寂しげな顔をして笑った。あぁ、また、うまく笑えていなかったのかもしれない。この子には、いつも心配をかけてしまう。いつもありがとう。ごめんね。
人混みで溢れたホームを抜けて、比較的混んでいなかった普通列車に乗り込む。混んでいないとはいえ、比較的。男女お二人様が、多いこと多いこと。
「あは、カップルだらけだねー」
「本当に、そうですね……」
中には一人だけで乗っている人もちらほら。でも、疲れ切ったような表情ではなく、人生を謳歌しているような、憎たらしい顔をしている。きっと、どこか違うところで待ち合わせでもしているのだろう。
……私もかつては、あんな表情で電車に揺られていたのだろうか。
私は今、どんな表情をしているのだろう。待ち合わせ相手のいない場所に、静かに運ばれている私は。
「ふぅ」
私の吐いた白い息がイルミネーションに彩られて消える。目の前には、目を伏せたくなるほどに美しい光景が広がっていた。……あぁ。本当に、私には眩し過ぎる。
「綺麗だねー!」
「えぇ、そうですね」
私とは違って、イルミネーションに負けじと目を輝かせる彼女は、満面の笑みを浮かべてそう言った。
綺麗だ。
あぁ。何となく、彼の気持ちがわかった気がする。こんな表情を浮かべる女の子には、甘い言葉をかけたくなるのも当然だろう。
『美奈、君の方が――』
はは。二人とも名前に「美」が入っているというのに。本当に、呆れたことだ。この子はこんなにも可愛くて、美しい。それなのに、私ときたら……あはは。
「あ、私、ちょっとトイレ行ってくる!」
「うん。……あ、ちょっ……」
彼女はそう言うや否や、すぐに向かいのお店に駆け出していってしまった。……すぐそこにお手洗いがあるというのに……。まぁ、こういう少し抜けているところも可愛いのだが。
「……ふぅ」
近くのベンチに腰を掛ける。久しぶりに人混みに揉まれて、少し疲れてしまったみたいだ。座るときに息を吐くだなんて、どうも年寄り臭くなってしまっていけない。私はまだピチピチの高校生なんですから。……はぁ。
冬は、嫌いだ。
特に、このクリスマスの時期が。
どこもかしこも大騒ぎ。夢を配るおじいさんだか、ジングルベルだか知らないが、とにかく煩わしいことこの上ない。
……それに。
『俺が必ず、君を幸せにするから!』
彼の声が、耳に木霊してしまうから。
「それでさー」
「あはは!なにそれー」
「ほら、あれすごくない?」
「ほんとだ。あっち行ってみようか」
楽しげな会話が耳障りだ。
その、幸せを享受しているような、目に見えるもの全てが美しいと信じているような、そんな笑顔で歩く姿が、手を繋いで歩く姿が、目障りだ。その目は恋で見えていないだろうに。手を繋いだって、寒さは大して変わらないだろうに。
そうに違いないのに。
ない、はずなのに。
何故か私の視界の方が、きっと狭いと、暗いと、わかってしまって。私は手袋をしているというのに、私の右手は何故か凍えていて。
その理由も、当たり前のようにわかってしまって。
本当に、やってられない。
私の辛さも、凍えも、震える息も手も、すべて冬のせいにして。クリスマスのせいにして。
一つだけ、息を吐いて下を向く。
踏み慣らされた雪だけが、静かに息を潜めていた。
あの日から、幸せとは何なのか、私にはわからなくなってしまった。
彼は、何を求めて私と一緒になったのか。
あのとき抱いた感情は、何だったのか。
私は何を求めて生きているのか。
私たちは、何を失って別れたのか。
……街を歩く人々は、その答えを知っているのだろうか。
「……はは。そう、だよな」
ふと。雑踏の中から乾いた笑い声が聞こえて、顔を上げる。楽しい楽しいクリスマスに似合わない、後悔に塗れた声だったから。
「やっぱり、綺麗だ。……永遠に」
ハートに彩られた大きなクリスマスツリーを見上げて、そう呟く男の人。その言葉が、やけに耳に残る。
彼もまた、何かを引きずって生きているのだろうか。生きてきたのだろうか。
あぁ、きっと、そうだろう。
誰も彼も、過去を背負ってでしか、未来へ歩くことができないのだから。
ねぇ、そうでしょう?
『永遠に、俺は君を愛していたい』
それにしても……永遠、ね。
実に……実に、美しい言葉だ。
永遠に想い合えたなら、永遠に記憶が薄れないのなら。それほど素晴らしいことはない。
……だけど、そんな素晴らしいことなんて、ないんだ。存在しないんだ。
いつだって私たちは、忘れていって。どんなに強く想ったって。苦しんだって。目紛しく意味のない日々に、塗りつぶされるだけ。薄れない記憶なんてない。永遠なんて、ない。
そんなこと、とっくの昔からわかっていて。
それでも。いや、それだから、私は願うんだ。信じているんだ。
溶けない雪のような、永遠の存在を。
だから、えぇ。そうですね。
永遠に綺麗でいてください。
そして、永遠は存在すると、耳が裂けるほど大きな声で叫んで。私の目が潰れるほど信じさせて。……この薄れていく記憶から、目を逸させて。
どうしようもない現実に目を瞑りたくて、上を向く。
いつのまにか、雪が降り始めたようだった。ホワイトクリスマスだ。神様とやらからの、カップルへのクリスマスプレゼントだろうか。……いい迷惑だ。煩わしい。このまま全部、雪に埋もれてしまえばいいのに。
『ほら見て!ホワイトクリスマスだよ!』
こんな雪の降る夜には、きっと悲劇が似合う。例えば、そうだなぁ……すれ違ったまま別れるカップルとか。突然、カフェで別れるカップルとか?あはは、なかなかいいじゃないですか。ねぇ、先輩もそう思うでしょう?
『――メリークリスマス、美奈』
「……はは」
ほら。こうやって、私はまだ思い出すことができる。私はまだ、忘れてなんていない。すべて、覚えているから。大丈夫。大丈夫だよ。
あぁ、でも。
―――やっぱり、断ればよかった。
美咲が誘ってくれたこと自体は嬉しかったし、私を元気づけようとしてくれていることもわかっていた。……でもまだ、こんなにも辛い。私が選んだ道なのに。私が好んで、引きずっているだけなのに。
でもね、後悔はしてないですよ、先輩。あなたとともに地獄に堕ちることができるなら、きっとそこは天国だから。
―――本当に?
不愉快なノイズが頭に過ぎる。
―――本当に、先輩は引きずっているの?
そんな聞き飽きた雑音は、ため息とともに吐き出した。
「話が違うじゃない!!」
突然、大きな声が聞こえて目を向ける。スラッとした綺麗な女性が興奮した様子で電話をしていた。うるさいなぁ。感傷に浸っているんだから、邪魔しないでよ。……いや、逆に、ありがたい、か。あはは。
それにしても、周りへの迷惑も顧みず、よくもまぁ大声を出せるものだ。雰囲気を壊されて、カップルさん方もお怒りだろう。こんな聖なる夜には似合わない。……あぁ、いや。こんな騒がしい夜には、お似合いかもしれませんね?
「ちょっと!……ねぇ!」
あぁ。なるほど。あの反応から見るに、ドタキャンでもされたのだろう。お気の毒に。……でも、なんだろう。慣れている?あぁ、まぁこんなことはよくあるよね、とも言いたげな顔。……ドタキャンに慣れている女って……どうなんでしょうね?どう考えても遊ばれてるとしか思えないんですが……。
「……チッ……ふふ」
舌打ちした後に笑うって……どんな感情なんだろう。ドタキャンされたにもかかわらず、彼女は余裕の笑みを浮かべて電話をかけている。どうやらさっきとは違う人にかけているようだ。……あぁ。なるほど。もう一人用意していたんですか。随分と用意周到なことで。……まぁ、そういう人もいますよね。付き合うよりも薄っぺらい関係が気楽だとか、よく聞きますし。実際そうなんだろうな。
……でも、もし。
もし、違ったのなら。
彼女は、本気で付き合っているつもりでいたのなら。
そんなあり得ないだろう妄想をしてみる。
誰にも救えない、哀れで愚かな人形の妄想だ。
そんな妄想が頭に浮かんでしまったのは。きっと彼女から、ニオイがしたからだ。浮ついている人特有の、心が腐ったニオイ。あるいは、悪酒に酔ったニオイとでも言おうか。……あぁ、それに……。
「……あ、もしもし?今日、空いてる?」
……どうも、彼女とは気が合いそうにない、からかもしれない。私とはきっと、正反対だ。反吐が出る。
だからだろう。
どうしようもなく、彼女が不幸になるストーリーを思い浮かべたくなったんだ。
―――その反対の、私が幸せになるために。私の幸福を、証明するために。
はは。最低。
「やった!じゃあ、今から来て!場所はね―」
あんな尻軽になれたなら。
私の人生は、また違っていたのだろうか。
そんなことが、頭に過ぎる。
そこまで考えて、思わず嗤い声が漏れてしまった。あぁ。そりゃあ、違うでしょうね。誰がどう見たって、地獄行きの人生だ。それも、終わりのない生き地獄。幸せを掴みたくてどれだけ足掻いても、その手の内にある幸せに気がつかないなら意味がない。
……本当に、バカなひと。
最初から、そういう女性だったのだろうか。それとも、誰かに狂わされたのか。……まぁ、そんなことはどうでもよかった。
彼女がどうなろうと、私には関係のないことだ。
それに、すべて私の妄想だから。
彼女が、まさかそんな女であるわけがない。だって、あんなに楽しそうで、幸せそうなんだから。きっと全て、私の妄想ですね。
まさか、そんな人間がこの世にいるわけがないでしょう?
……ふふ、まさか、ね。
「お待たせー」
美咲の声に意識を引き戻される。
振り返ると、何故か少し疲れた様子で彼女は立っていた。
「おかえりなさい。お手洗い、混んでいたんですか?」
「……あー、まぁそんなとこだよ」
あはは。と、少し笑いながら彼女は誤魔化した。む……?なんだか、変な態度だな。彼女とはそれなりの付き合いになるが、私にこんな微妙な言い方をしたことはほとんどない。確実に何かあったのだろう。そして、私に言いたくないこと……?
「何を隠してるんです?」
「……え?何も隠してなんてないよ?」
「……何があったんですか?」
「特に何にもなかったよ?」
「あぁ、じゃあ、会ったんですね」
「えぇ!?なんでわかったの!?」
いや、適当にカマをかけただけなんですけどね。ここまで見事にかかってくれるとは思いもしなかった。会ったのはいいのだが、生憎誰と会ったのか、全く見当もつかない。なんて、嘘です。本当は大体見当がついているんですけどね。
「ふふ。私にはお見通しですよ。別に隠そうとしなくてもよかったのに」
「だって……なんか、恥ずかしいし」
なるほど。私に紹介するのが恥ずかしいってことは、やっぱりこれお兄さんですね。この子、最近お兄さんについて私に話すのを避けてるみたいなんですよね。……前はもっと色々と話してくれていたのに。何か、あったのだろうか。
「……私も見たかったなぁ。美咲の大好きなお兄さん」
「ッ!?ちょっと!やめてよ!大好きとかじゃないし!!」
「ふふ、はいはい」
「もうーー!!」
あぁ。本当に。
ここに来たのが、この子と二人で、本当によかった。
『……?い、いや。何も隠してなんていないよ?』
そのおかげで、全てを思い出せる。
『……君には敵わないなぁ』
彼のバレバレな嘘も。
彼の恥ずかしげな表情も。
いつもより少し固い、緊張した彼の声も。彼の手の震えも。その手の暖かさも。
『メリークリスマス、美奈』
そして、私に向けた微笑みと。
『俺と、付き合ってくれないか』
彼への恋を。
そのすべてを、思い出すことができるから。
―――忘れたく、ない。
だからこそ、必死に思い出して思い出して。それがどれだけ辛くても、苦しくても。
それなのに。
どれだけ掴もうとしても、引きずろうとしても。消えていくんだ。この白い息のように、この足跡のように。
『永遠に、君だけを』
この辛さだけが、証明だから。
彼と私が一緒にいたという、証明。
私の恋の、証明。
だから、消すわけにはいかない。
例えいつか、全てが消えるとしても。永遠などないとしても。
それでも、そのときまでは。
あぁ、だから。
メリークリスマス、なんて言う気は、さらさらない。過去に生きている私に、生きたいと思っている私に、聖なる夜は早すぎる。
だから。その代わりに。
目の前で、口いっぱいにクレープを頬張るこの子には、伝えておこう。
「ねぇ、美咲」
「んー?……ん、どうしたの?」
「あなたは、幸せになってくださいね」
「……?どうして?」
「……どうしてって……」
「私はもう、幸せだよ?」
「美奈ちゃんと一緒に、クレープを食べれてるんだもん!」
「……ふふ、あははは!」
「えぇ!?美奈ちゃんも笑うの!?どうして!?」
あはは!本当に、この子は。
いつだってこうやって、私の考えを軽々と超えてくる。これだからこの子と友達になれると思ったんだ。友達になりたいと、思えたんだ。
その言葉で、その笑顔で、どれだけ私が救われたことか。救われていることか。きっとあなたは知らないんでしょうね。……本当に、ありがとう、美咲。
『あぁ。俺は本当に……幸せ、だよ』
本来、幸せというものは、それでよかったんだ。
幸せなんて、そもそも幻だ。
何が幸せとか、決まっているはずなくて。誰にだって、わかるはずなくて。
だから。誰かがそれを、幸せだと叫んだなら。それはきっと。……いや、間違いなく幸せなのだろう。私の幸せは、私が決める。誰にも、邪魔させない。否定させたりしない。例えそれが、時の流れとかいうものであったとしても。
この恋を消させたりなんて、しない。
……ふふ、私も、彼女のことを言えませんね。もうとっくの昔から、私の掌の中には幸せはあったというのに。
「あはは!そうですね、私も幸せですよ、美咲」
「もぉー!何か面白かった!?」
―――あぁ。本当に、幸せだ。
だから。消えていかないで。
私は幸せに、何とか生きているから。
あなたのおかげで、私は今、こんなにも幸せですよ、先輩。だから、あの日した約束はきっと、守られているんですよね?守られているんです。
―――だから。
きっとあなたも、私との約束を忘れたり、しないですよね?私も頑張りますから。……絶対に、忘れたりなんてしませんから。一欠片でも。
『えぇ。私も、幸せですよ、柊さん』
これが。これこそが、私の幸せです。
『大好きです。ずっと』
それなら、そうですよね。先輩。
あなたも、幸せですよね。きっと。
メリークリスマス、柊さん。
幸せなあなたに、幸せな私より。
*****
「ふぃ〜」
「……ん?」
ふと化粧室の方を見ると、我が妹がご満悦の表情で手の水を散らしていた。普通にみっともない。ハンカチは常備しておけとあれほど言っておいたのに。
「ほら、これ使え」
「……え、あ。ありがとうございま……って、げ、お兄ぃ!?」
「げ、とは結構な挨拶だな。あと、知らない人からハンカチは貰うなよ」
毎度毎度失礼なやつだな。……というか、まさかこんなところで遭うとは思ってもみなかった。クリスマスの夜に、繁華街?こいつもなかなか大人になったものだ。
「なんだ、クリスマスにこんなところまで来て」
「べ、別に!お兄ぃには関係ないでしょ!」
「おいおい、ツンデレ系妹かよ」
「は?キモ」
「ほら、やっぱり」
「帰りたくなってきたわ」
ふむ?なんだこの反応は。本当によくいるツンデレ系妹じゃないか。……いや、まぁ、現実にはよくいるわけないし、今のところデレが見えないが。……それにしても、こんなキャラだったか、こいつ?
……とりあえず、少し探りを入れてみよう。とにかく情報が少なすぎる。
「ふむ、もしかして彼氏か?お前も隅におけないなぁ」
「ち、違うし!」
「違う」。彼氏について訊かれるのをわかっていたかのように、即答だったな。それにわざとらしいドモり。彼氏の存在に意識を持っていきたかった?それなら、本当に彼氏はいないな、こいつ。
もっと別に隠したいもの……。犯罪に手を染めるようなやつでもないしな……。あぁ、俺に会わせたくないって言ってた、親友ちゃんのことか。ふふ、まだまだ甘いな、妹よ。
……まぁ、それでも。何かを誤魔化すために他の違和感を目立たせる、なんて。……俺の常套手段じゃないか。成長したな、妹よ。……喜んでいいのかはわからないが。
まぁ、記念だ。ここは騙されておいてあげよう。折角のクリスマスだし、これくらいのプレゼントは許されるだろう。それに、別にナンパをしにここまで来たわけじゃあないしな。
「おいおい、なんだよ。彼氏かよ。お前もやるなぁ!」
「……!!も、もう!ほっといてよ!」
おいおい、なんで少し嬉しげなんだよ。俺を騙せたことがそんなに嬉しいか?……本当に、いい性格をしている。愛しい、愛しい妹だ。
「お兄ぃこそ、どうしてここに」
「買い物さ」
「嘘」
「……バレバレか。まぁ、彼女ちゃんとのデートだよ」
「ふーん。へー。ほーん」
……うぜぇ。うまくいったからって、調子に乗ってやがるな、こいつ。まぁその彼女はどこにいるんだよって話だからな。……それを言えばこいつの彼氏とやらもだが。
「はーん?うーん?んー?」
……気が変わった。さりげなく指摘してやろう。
「まぁ。楽しんでね、一人でのクリスマス」
「やかましい」
「あはは!それじゃあね〜」
「おう。親友ちゃんによろしくな」
「っな!……もう!!」
騒がしくて台風のような……いや、吹雪のような妹が店を出て行く。久しぶりに会ったが、やはり人間そう簡単には変わらないようだ。……少し、大人げなかったかな。あのまま騙されておいてやればよかった。すまんな、妹よ。でもあれは流石にしつこすぎだと思うぞ。
ふぅ、と一つ、息を吐いて。妹が走っていった方向とは逆方向に歩きだした。
ここに一人で来て、よかった。
心の底から、そう思う。
こんなクリスマスの夜に、一人で出歩くなんて。よほど暇でもしないだろう。イルミネーションに彩られた木々に目を奪われ、ふと辺りを見回せば――いや、見回さなくともカップル、カップル、カップル。大変精神に悪いことこの上ない。時折見かける、疲れ果てた様子のおじさんだけが癒しかな。……いや、癒しにもならないが。
あぁ。でも。俺は、好きだ。
この息が詰まるようで、泥の海に身を任せるような空間が。
闇を跳ね返すかのように輝く白。今夜は周りのどれだけの人々が、輝く城に入っていくのだろうか。
そんな、益体もないことばかり頭に浮かんで。いらないことを全て忘れさせてくれるわけでもないのに。
でも。それでも。
心ゆくまで、絶望と葛藤に溺れることができるから。ほんの少しだけでも、いらないことを忘れさせてくれるから。
この空間が、凍え死ぬほど心地いいんだ。
「先輩ほら、手、繋ぎましょう?」
「……おう」
「ふふ。あったかいですねー?」
「……あぁ。本当に、暖かいよ」
笑顔が眩しい女の子と、少し恥ずかしげにしている男性が目に映る。なんだか、長い間連れ添った雰囲気がありながらも、どこか初々しい二人だ。
なんなんだ、このラブラブカップルは。俺への当て付けか?羨ましすぎるな、俺にもその幸せ分けてくれよ……なんて。冗談さ。わかっている。
きっと彼らも、乗り越えてきたのだから。
痛みを、苦悩を、道の険しい山々を。
長かっただろう。どれだけ苦しんだのだろう。その笑顔の裏に、恥ずかしげな表情の裏に、どんな物語があったのかは、俺にはわからない。でも、それら全部を乗り越えて。彼らはやっと手に入れることができたんだろう。掴み取ったのだろう。幸せとしか形容できない、お互いの手の温もりを。
……はは、まぁ。末長く幸せに爆発してくれよ。俺が願うまでもないことだろうけど、さ。
『あはは!ほら、こうしたらあったかいでしょ?』
―――彼女が浮かべる、幸せそうな笑顔が脳裏に過ぎる。
……乗り越えたつもり、だったんだけどなぁ。俺も、さ。
俺の左手はもう、冷たいままだ。
メインストリートから少し離れると、辺りはちょっとした静寂に包まれていた。それでもイルミネーションやら、小さなクリスマスツリーやらが綺麗に夜の街を彩っている。
クリスマスは、好きだ。
このわちゃわちゃした感じ。煩くて騒がしくて、そのうえ鬱陶しいこの季節が、意外と好きだ。雑踏に包まれていれば、すべてを忘れていられる。痛みも、後悔も、彼女のことも。……あぁ。そう考えると、妹と一緒に来た方がよかったかもしれない。きっと、クリスマスに負けない煩さを提供してくれたことだろう。……なんてな。
だから。ここに来たのは失敗だった。ここは余りにも静かすぎる。
俺の思考を邪魔してくれるものが何もなくて。いらないことばかりを思い出してしまう。
『ねぇねぇ!ほら、あっち見に行こ?』
……もう。うんざりなんだ。
思考を振り払うように辺りを見回すと、ベンチに腰掛ける青年にふと目が留まった。……一人で座るには、随分と不自然な座り方だ。じっと空を見上げて、目を細めている。
『ねぇ、見て見て!すごいよ!』
彼につられて、上を見上げてみる。イルミネーションに彩られた木々。その光に染まりながら散らつく雪。……あぁ。これは、確かに綺麗だ。まるで、光の粒子が降ってきているようで。ロマンチックの一言に尽くすにはもったいないほどだ。
この光景を見て、彼は何を考えているのだろうか。後悔?無常感?無力感?……そんなことを考えてしまうのはきっと、俺だけだな。
『ロマンチック……とだけで言い表しちゃうのは、ちょっと不粋だよね』
彼の隣に座って、しばらく眺めていようかと思った。……だが、それはきっと、野暮というものだろう。
こういうのは、一人で見るに限る。誰かがいると、どうしても集中できないものだ。……それに。何故だろう。彼の隣に、誰かが座っているように見えたんだ。……はは、どうやら俺は、お呼びではないらしい。この輝く雪はもう、俺のためのものではないのだろうから。
「……あぁ。なんとか、生きてるよ」
ぽつり、と。咳き込むように呟いた彼の言葉が、耳に届く。
「……ごめんな。幸せでは、ないけれど」
邪魔者は退散するとしよう。
彼の、いや、彼と彼女の時間に、水を差したくはない。
彼は、俺とは違って引きずってなんかいない。引きずるなんて表現は、彼への……彼らへの冒涜だ。
抱えて、背負って、共に歩いて生きると決めた彼への、冒涜だ。
「……ふぅ」
少し離れたベンチに座って、目を瞑る。流石に真冬の夜はよく冷える。耳たぶが凍ってしまったかのようだ。手袋を脱いで、素手で耳たぶに触れる。じんわりと熱が伝わってきて気持ちがいい。そして。どこか、懐かしい。
『ほら、あったかいでしょ?』
あぁ。本当に、懐かしい。
もう。その温もりも思い出せなくなってしまったけれど。
『あったかいですねー?』
彼と彼女は、すべてを清算したのだろう。過去のすべてを。あの、幸せを、暖かさを噛み締める彼の顔を見ればすぐにわかった。ねじれにねじれた過去を、静かに丁寧に解いて。そして、もう一度結んだんだ。強く、強く。今度こそは綻びができないように。……過去ではなく、未来に生きていくと決めたんだ。
俺にも、あったのだろうか。そんな未来が。もう一度恋をしなおす勇気があれば。彼女と、やり直す勇気さえあれば。……はは。なかったから、こんな状態になっているんだもんな。本当に、情けない。
『もう。また悩んでるの?……じゃあ私は、これがいいなー』
その勇気がないくせに、過去を捨て去る勇気もないなんて。いったいお前は何がしたいんだ、って話だよな。……こんなとき、彼女がこの俺を見たなら。いつものように厳しく、それでいて優しく背中を押してくれたのだろうか。
『ふふ。本当に、私がいないとダメなんだから』
ごめんな。
やっぱり俺は、君がいないと、ダメみたいだ。
『ふふ。私は、あなたがいてくれればそれでいいんだよ』
君さえいてくれれば。
それだけで。俺は幸せだったのに。
それだけが。俺の幸せだったのに。
『幸せでは、ないけれど』
俺には、ベンチに座る彼がどんな過去を生きてきたのかなんてわからない。彼が呟いたあの言葉の真意も、俺にはわからないのだろう。……でも、彼は、引きずって―――いや、抱えて生きていくと、決めたんだ。それだけは、わかった。過去を背負って、過去に生きていくと。
俺には、そんなことは、できない。
そんな重い荷物を抱えて生きていけるほど、気力も筋力も、ないんだ。……ほら、こう見えて俺ってひ弱だからさ。すぐ潰されて、動けなくなってしまうよ。……はは。面白くねぇ。
本当に、中途半端だ。
……ずっと、忘れたいと思っていた。
忘れたかった。何もかも。
『んー?いやー?別になんでもないよー』
彼女の顔も、髪の匂いも。
笑顔も声も手の温もりも。
『ふふ。ほら。たまには甘えさせてよー!……ね?いいでしょ?』
前に進みたいんだ、いい加減。
そうだというのに、そうだと言っているのに。俺の右手は、俺の足は、動いてくれなかった。
彼女との写真でさえも消せない俺に、記憶なんて消せるわけがない。
『私さ、忘れないよ。絶対』
ただただ、その場に立ち竦むだけ。
見上げた空の遠さに、目を瞑るだけ。
『……あぁ。本当に、幸せ、だなぁ』
そんな、くだらない葛藤に溺れているうちに、季節は流れていってしまった。
夏も、秋も、冬も。
すべてが俺を追い越していって。
……きっと、あったのだろう。
葉が散る季節に結んだ愛も。
花散る季節に消えた恋も。
この世の中には。俺が見えない日々の中には、あったのだろう。
すれ違う人々も、何気ない景色も、宙に舞うこの雪も。
生きてきたんだよな。
乗り越えてきたんだよな。
引きずってきたんだよな。
……桜が、雨が、雪に変わっても。
『ねぇ、ほら!凄いよ!綺麗!』
「あぁ。本当に、綺麗だ」
幸せだった。
あのとき胸を貫いた感情はきっと、幸せ、だ。
『え?私の方が綺麗だって?いやー照れるなー!』
「……その通りだよ、春香」
辛かった。
誰よりも大切な彼女が、俺をなによりも大切に想ってくれていることが。
こんな俺に、巻き込まれてほしくなかった。それなのに君は。
辛かった。
幸せだった。
だからこそ俺は。君と一緒に生きたかった。でも、君には幸せになってほしかった。
『……ちょっと。それ、ズルいよ』
わからなかった。本当に。
どうして、彼女が俺を裏切ったのか。
わかっている。本当は。
俺はやっぱり、彼女を幸せにはできなかったのだろう。
『……大好きだよ』
「俺も……愛して、いた」
だから。
終わらせることにしたんだ。
幸せとかいうものを力の限り噛み締めて。噛み砕いて。
俺の。そして、君の。
くだらない恋を、終わらせたんだ。
それだけが、二人ともが幸せになれる方法だと思ったから。信じたから。
……そんなものでは、誰も幸せになれないと。……本当は知っていたのに。
はは。やっぱり、ダメみたいだ。
ごめんな。
「メリー、クリスマス」
誰に言うでもなく、それでいて、俺の声が聞こえる全ての人に呟く。
すべてを忘れたい俺に、過去を引きずり続ける俺に、一番似合わない言葉だ。
でも、俺の代わりに、他の誰かが幸せになってくれるのなら。……彼女が、酔っていてくれるのなら。俺はいくらでも叫ぼう。だから、いつか。俺にも叫んでくれよ。俺が、歩き出すときに。
でもさ、まだ。
俺には、聖なる夜は早すぎる。
煌びやかな街に、俺には眩しすぎる夜に背を向ける。
あぁ。本当に、一人で来てよかった。
『ふふ!二人で来たら、やっぱり楽しいね!』
俺じゃなくて、ここにいる誰かが。
『一人で来ても、きっと、寂しい気持ちになるだけなのに。不思議だね』
俺の代わりに、誰かが幸せになる世界で、よかった。
『私、幸せだよ。あなたと一緒に、クリスマスを過ごせて』
それだけで俺は救われる。
『……ねぇ。あなたも、幸せ?』
それだけで俺は、すべてに目を瞑ることができるから。
本当に、ありがとう。
今日のおかげで、明日もまた、俺は生きていける。
『ふふ、メリークリスマス!』
感謝の気持ちといってはなんだけど。まぁ。別に聞き流してくれていいから。すぐに忘れてしまっていいからさ。
でも、せめて贈らせてくれ。君たちにはもう、彼女にはもう、必要のないプレゼントかもしれないけれど。
こんな素晴らしい聖なる夜に、一つの祝詞を。
「……お幸せに」