旅立ち IV
ブラッドグリズリー。それは、冒険者ギルドではシルバー級の強さに位置する強力な魔獣であり、つまりランクから言えば精鋭の戦士を派遣して倒すような存在である。少なくとも、薬草採取のような非戦闘員でもできる仕事で出てくるような魔獣ではない。ミスティエルのランクは一番下っ端のアイアン級なので、本来の冒険者ギルドの仕事なら絶対にマッチングしないような存在のはずだった。
それが、今回の仕事に限って出てきた。偶然とはとても思えなかった。
ミスティエルはすぐに気づく。つまるところ、この依頼は面倒な新入りを処分するための罠。もとから達成させる気などなく、彼らは元からミスティエルを殺す気でこの依頼を斡旋したわけだ。
「ははっ、ふざけた話ですが」
だけど、ミスティエルは不思議と負ける気はしなかった。多少の恐れはある。それでもこの強力に見える魔獣が、自分を殺すイメージがつかない。
記憶と思考が入り混じって、一つの魔術文が脳内に浮かび上がった。それは純粋な、敵を殺すための魔法。ミスティエルは魔石を祈るように握りしめて、大声で叫んだ。
『ダィ=ケウェス・マスト・ザロータス・ツェファス・スタルカル』
詠唱を終えるやいなや、魔石を握りしめた右手を渦巻くように漆黒の靄が包み込む。それはすぐに螺旋状の矢となってブラッドグリズリーの巨体を貫いた。
こちらへと襲い掛かろうとしていたブラッドグリズリーは苦し気に地に転がり込み、そうしてもう一度起き上がろうとするが、それはかなわない。一度身体を貫いたはずの闇の矢は、再び靄となって転がり込んだ肉体の上にうごめいていて、そののち再び濃く固まって数えきれない小さな矢のようにとがると、雨となってグリズリーの体を上から突き刺した。そうしてようやく魔力の闇の矢は離散した。
体に無数の風穴をあけられて、グリズリーの体からは流れるように魔獣の黒い血が出ている。茶色かった体表はどす黒く染まり、その体の下には血だまりができている。死んでいるといっていいだろう。
ミスティエルは緊張から解放されて、それで息をつく。
最初はほっとした。けれどしばらくして、自分の力の異質さに気づかされてしまった、だって、あまりにも強すぎる。今までの違和感が、脅威となっていきなり牙をむいたようにすら思えた。
自らが口走ったのは、――第五階梯魔術。すなわち五つの文節を以って紡ぐ魔術文は、修行を積み重ねた最高位の魔術師にのみ許された奇跡だ。これを導き出せる自らの記憶とは、いったい何なのか。ミスティエルは、自分自身が分からなくなったような錯覚に陥る。訳が分からない。
もっとも確かなのは、この大いなる力がミスティエルの手の内にあって、しかもそれがまるで昔からそうだったかのように馴染んでることだ。ようやく自分の中に生まれた恐怖を抑え込めたミスティエルは考え直した。
きっとこれは、自らの道しるべになるだろう。家から追放されて、やるべきこともなにも見当たらない。きっとこれの知識の源泉を探ることが、自分の人生の足しになるかもしれないと。そうでも思わなければ、やってられなかった。
さて魔獣の中には、魔石が眠っている。そもそも魔獣は動物でいう麦や肉の代わりに、魔力によって動かされている生命であると考えられていて、その体の中には吸い込んだ魔力が魔石として蓄積されているのだ。
ミスティエルは死んだブラッドグリズリーの肉を解体して、その中にある魔石を取り出しておいた。解体は初めてやったが、やり方は知っていたので普通にできた。
他の部位も本当は持っていきたいが、いかんせん重い。それに冒険者ギルドに馬鹿正直にグリズリーを倒せる力があったことを知られたくもないし、そもそも悪名高いミスティエルが、ギルド以外で倒した魔獣の素材を売りさばけるとも思わない。今回はあきらめて、さっさと街に帰ることにした。
街に帰るころには、日暮れは近かった。籠いっぱいに薬草を背負いこむミスティエルに向けられる町人の好奇の視線を無視して、ミスティエルはさっさと冒険者ギルドを目指す。
ギルドの扉を開けると、出かけた時と同じ受付嬢がカウンターを持っていた。ずっとそこにいたのか、あるいはシフトの関係なのか。どちらにせよミスティエルには興味はないが、ちょうどよかったのでそのカウンターへと向かう。
声をかけると、受付嬢は信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。
「あ、あなた、どうして生きてっ」
「どうしてと言われても、ただの薬草採りで死ぬほどヤワじゃないですよ」
「そういうことじゃなくて!」
あやうく殺そうとしたことを漏らしかけるくらいに、受付嬢は混乱していた。
ミスティエルは気にせずにさっさと手続きを済ませたかった。依頼内容の薬草の入ったかごをドンと置く。
「それより少しいいですか、依頼達成の報告をしたいのですが。ええとこれが、所定の薬草です。これで、達成報酬がいただけるのですよね?」
受付嬢は悔し気な表情を隠そうともせず、雑に机の上で事務を始めた。そして受付嬢は続いて薬草をとって、代わりに金属板のようなものを突き出す。
「これがギルドカード。ギルド員としての身分証明になるから、絶対に手放さないでくださいねー」
無くせと言わんばかりの言い方でいう。それでも真面目に取り合ってくれるだけ、この受付嬢は職務にだいぶ真っ当ではあるのだろう。それか、ギルド自体が規律の整った組織であるのか。ミスティエルにとっては、どちらにせよありがたいことだ。
「すみません、いきなりで申し訳ないのですが、千ゴクス下ろしてもらってもいいですか」
「めんどくさいですねー。そういうのは先に言ってくださいよー」
そうしてまた手続きをして、受付嬢は百ゴクス銀貨を十枚よこす。五百ゴクス金貨二枚でないあたりに受付嬢の悪意を感じたが、まあどうでもいい。
「ありがとうございます。それではまた」
ミスティエルは今度こそ硬貨とカードを受け取って、そうして帰路につく。
「ええ、またお越しくださいねー。……運がよかったみたいですがー、今度はこうはいきませんからー」
受付嬢は見送りでこう言った。実際のところ後半部分は独り言のように漏れた小声で、ほとんどだれも気付いていなかったが。
ミスティエルは町中を歩く。今夜寝るところを探していた。もっとも悪評の高さから言って、どこの宿も泊めてくれないかもしれない。町の外で野宿になるかもしれないと思っていた。
そんなことを思っていると、街中を巡回する兵士が近づいてくる。三人組だった。何か用だろうか。
「ミスティエル・レイティ――いや、ミスティエル! お前に町人に対する暴行の容疑がかかっている! 聞けば身を保護した親切な町人に対して危害を加えたそうだな! さあついてこい、牢獄にぶち込んでやる!」
そのうちのリーダーが、大声で叫ぶようにしてミスティエルを糾弾する。そうして彼らは持っている長剣の切っ先をこちらへと突き付けた。
「正当防衛ですよ。彼らは意識の朦朧とした私を浚い、そうして毒入りの水を飲ませようとした。多少の暴力をしなければ、あの状態は切り抜けられなかったのです」
ミスティエルは毅然と言い放った。兵士の一人があざ笑うようにその言葉を否定する。
「そうか。だが、……それがどうした。貴様の機嫌を損ねただけで、無実で牢に入れられた人間など何人もいるというのに、いまさら正当性の主張か? 誰も聞きやしないぞ?」
「でしょうね。言ってみただけですよ」
「おとなしく捕まって死ね、この屑女め」
お互いに、分かり合おうという意思もなく、言葉をぶつけあっていた。いや、ただ吠えるように吐き捨てたといったほうが自然かもしれない。
兵士たちは三人組で、ミスティエルに襲い掛かる。
『ダィ=サルズ・オルタス』
ミスティエルの声が響いた。掲げた手に黄色い閃光が走り、その次の瞬間には襲い掛かろうとしていた兵士が崩れ落ちた。
「貴様、魔法が使えるのかっ……!」
「残念ながら、使えるみたいでして。安心してください、三十分もすれば動けるようになりますよ。それまでの間ですか? せいぜい痛みに苦しんでください」
「クソがっ」
なにせさっき倒したグリズリーから大きな魔石を得ていたミスティエルは、多少派手な魔術が使える。全体魔法でまとめて痺れさせてやっても、精神の負担すら感じなかった。今の彼女はこの程度の相手なら無敵だった。
ミスティエルはもう、このフルミヴェンの町に留まる気はなかった。公権力が敵に回った以上、ここで過ごせば捕まるのは時間の問題だ。
今日中にでも逃げてしまいたい。これからのことを考えながら町を歩いていく。
それにしても。先ほどまで侮蔑と嘲笑の視線を送っていたはずの町人たちが、一瞬で兵士を叩きのめしてから、ミスティエルを恐れるように道を開けるようになった。わかりやすい愚民どもの態度の変化に、ミスティエルは不思議と快感を覚えた。
そうだ。道を開けろ、傲慢姫ミスティエル様のお通りだ。無力な貴様らはただひれ伏し、慈悲を乞えばいいのだ。暗い快楽がミスティエルの胸の内で首をもたげたのを感じた。
当然自らの闇に気づいたミスティエルは、すぐにそれを封じこめた。
確かにこの虫けら共をいじめるのは楽しいかもしれないが、いまはそんなことをしている場合ではない。一刻も早く逃げねば、自らの身が危ないのだ。さすがに領内の兵全体を敵に回して勝てる気は全くない。そうしてここで死ぬ気も全くない。
適当にそこらの食糧をくすねながら、町民の目を欺くように裏路地を移動して駅の裏に紛れ込むと、今日出発しそうな馬車を見極めて、荷に紛れて潜みこむ。
しばらく潜んでいると、商人と馭者の声が聞こえた。そののちに護衛の声も聞こえて、ほどなくして馬車は動き出した。
馬車のガタつきが急にひどくなったのを感じた。町を抜けたのだろうと思った。ちょっと間をおいてから、馬車の後ろに張り付いて、外の眺めへと目を向けた。
城壁に囲まれたフルミヴェンの都市が見えた。日はすでに傾いて、空の真上はもう深い紺色に染まっていたが、まだ街のほうは赤みを帯びて光を受けている。でこぼこの荒野の茶色と対比されて、城壁の灰色に赤い光が差し込んでいるのが、綺麗に映えているように見えた。
ミスティエルは泣いていた。視界が潤み、涙が落ちて、ようやく自らが泣いていることに気づいた。まるで片足に縛り付けられていた鉄球の鎖が取られたような、あるいは片足ごと持っていかれたような、どうしようもない解放感に襲われて、ミスティエルは何も考えられなかった。