旅立ち I
ミスティエルは興奮していた。いよいよ極限の状態から目覚めた謎の知識と思考力は、ミスティエルを混乱させるには十分すぎた。
だがそのしばらくの興奮の後に、我に返ったミスティエルが一番に考えたのは、自らの身の安全だった。
当たり前だ。ほとんど誘拐のように連れ込まれて、貧民街のボロ屋の二階に閉じ込められているのだ。
とりあえず自ら姿を目で確認すると、勝手に服が取り替えられている。もっともそれ以上のことは、特に何もされていないように思えるが。
ならば、もしかすると本当に善意で世話をしてくれるのかもしれないと言う考えは、すぐに否定された。それなら毒薬をコップの水に混ぜる必要はない。
「おおよそ、世間知らずの娘を良いように騙して、遊女として働かせるつもりなんでしょう」
ミスティエルは小声でそう吐いた。レンラームの効果を考えれば、それが自然に思われた。
未だ身が清らかなのは、その方が高く売れるからという理由なのだろうと推測できる。
とはいえ別にミスティエルも、身体を売るという選択肢を考えないわけではない。
おそらく自らの風評を考えれば、まともな仕事には付けないだろう。市民として製造職や専門職に付くことは、およそ不可能に思われる。誰だって厄介事は抱えたくない。
まともでない職業といえば、いわゆる裏社会の仕事だったり、あるいは冒険者などがある。とはいえ、なんの能力もないミスティエルがそのような職業に就いたところで、使い捨ての駒になるのが関の山だろう。
それならば。ミスティエルは自覚はあまり無いが、客観的に見て容姿が優れたものであることは知っている。娼婦であれば、成り上がれる可能性は残っている。もしその将来を選ぶならば、どのみち後ろ盾は必要で、ここで下のならず者たちに従うのも悪くないかもしれないと思った。毒を混ぜるのは頂けないが、しかし話し合えば利益を共にできるかもしれない。
そう思いつつ、物音を立てないように部屋を漁る。何かあるかもしれないと思い、壊れかけた机の引き出しを開ける。中には少しの硬貨と魔石がある。ボロ家に相応しいような、純度の低い魔石だと脳内の記憶が告げる。ほとんど屑石に近い。
なんとなしに、ミスティエルは手のひらに魔石をのせて眺めた。その瞬間に脳内に記憶の糸ができて、短文が自然に思い起こされた。
『ダィ=ツェフ』
ほとんど無意識に、口ずさむように。
詠ったその単語は目の前で、現象として具現化した。掌の上で、小さな風の渦が踊っていた。
ミスティエルは目を見開いてそれを見つめていて、それはさらなる記憶の呼び水になった。
魔術詠唱文。それは人が人ならざる力を呼び出すための、大いなる言霊。その片鱗を知っているのだと、記憶は告げていた。
ミスティエルは魔術についての知識を思い返していた。魔術を呼び出すには多くはいらない。魔力源となる魔石と、その力を引き出す詠唱文、そして魔力を制御する精神力。この三つで魔術師は事足りる。だがそれは決して魔術が簡単であることを意味するわけではない。
第一に詠唱文は人類にとっては呪文のようなもので、真の意味を知る者はいない。詠唱文の正しい構築は偏に経験と才能に依存し、適切な師と才覚をもってのみ魔術師となれる。
第二に魔力の制御は、精神集中と負荷の高い思考を要求する、職人技の一種だ。誰もが新たに詠唱文を作るわけでなく、殆どの魔術師は一般に知られた詠唱文のみを使用する。それでも魔石に内在する魔力を、いかに効率よく現象へと開花させるかは、当人のセンスと熟練に委ねられる。素人は高価で高品質な魔石を使い切っても、簡単な一文節の魔法すら満足に起こせない。
ゆえに魔術師は貴重なのだ。貴族でも平民でも、この才覚を欲しがる人はいくらでもいることは確かだった。それも屑石のごく僅かな魔力から魔術を引き出せる者は、そうそう居たりはしない。
だとすれば、生き抜くために最も正しい選択は、娼婦ではないだろう。ミスティエルはいまだ過回転する思考によって、即座にその結論を導き出す。
ミスティエルはこのとき、この瞬間に、自らが冒険者となることを決心したのだった。
さて、あまりにも大きな音を立てすぎたのだろう。ドタドタと品のない足音が階段を駆け上がってくるのが聞こえた。足音は一人だ。
ミスティエルも流石にごまかせるとは思っていなかった。いよいよこの家の主が訪れるのに備える。ドアの前で待ち構えて、脳内で使うべき魔術文を復唱する。複数いるうちで一人が来たのは好都合だった。
冒険者になることを決めたミスティエルには、もう後ろ盾など必要ない。そうして部屋のドアが開いた。
「目が覚めたか、お嬢様。機嫌はいかがで――」
『ダィ=ボスプ』
訪れた大男は見えない塊を食らって吹っ飛んだ。何が起こっているか理解できない彼に、ミスティエルは一切の間もなく詰め寄って、首の根を押さえつける。
彼は声を上げることすらできない。信じられないものを見るかのような目で、苦し気にミスティエルを捉えている。
「その、申し訳ありませんが。殺しはしませんから」
ミスティエルはそう呟いて、すぐに大男は失神して崩れ落ちた。実際、記憶にある相手の絞め落とし方の通りにやっていたから、本当に気を失っただけだ。
崩れた男を見る。こうなってしまっては、いよいよこの家の主とミスティエルの間には、和解の手立てはないだろう。ここから逃げねばならない。
一階の気配は一人だけなのは分かっているが、ふと窓を見るとその下は開けた地面になっていて、外には誰もいない。少し逡巡したが、これはチャンスだろうと思った。
『ダィ=フェザール・ツェフト』
二文節の高度な魔法すらも、使えるだろうという直感がミスティエルにはあった。そうして、事実成功した。
ミスティエルは小銭と屑石だけをくすねると、記憶の通りに恐れなく二階の窓から飛び降りて、風の衣に包まれて着地した。
無事に逃げ出したミスティエルは、人のいない路地裏から出て、多少は人通りのある道へと出ていた。
着ている服こそ変わっていたものの、顔の見た目なんかは変わってはいないから、町人はみな素性には気付いていて、不躾な視線があちらこちらから向けられている。でもとりあえず、今のミスティエルにはそれは関係なかった。というのは、彼女はとにかくお腹が空いていた。
ミスティエルは道の脇の屋台で串刺しの焼肉が売られているのを見つけて、吸い寄せられるように近づいていく。
「すみません、私にも一本いただけませんか」
「あ? わかるかなあ、お嬢様。これは売り物なのよ。食べたければ金出せって話なの。一本二十ゴクス。あー高貴なお嬢様には、意味が分からないかなぁー」
「……ここに三十ゴクスあります。定価の通りに三本くださいとはいいません。一つで十分です、駄目ですか?」
ミスティエルの冷静な反応に、店主はあからさまな舌打ちをすると、肉串を一本差し出した。そうして出された硬貨をかき集める。
店主は硬貨に紛れた玩具のコインを見つけて、あからさまに口角を上げた。
「おっと、お金の中にゴミが混ざってるなあ。こんなの押し付けられても、困るんだが?」
「ごめんなさい」
あからさまな嫌味にも反応せず、素直に認めて代わりの硬貨を差し出す態度に今度こそ気を損ねた店主は、玩具のコインを押し付けるとさっさとミスティエルを追い出しにかかる。
ミスティエルとしては、食べ物さえもらえれば問題ない。さすがにマナーを気にする気も起きず、その場で一気に肉串を食べ終わると、間違えて差し出してしまったというコインへと目を向ける。はて、こんなものを持っていただろうか。
確かに玩具のコインは確かに王国の発行する十ゴクス硬貨をモチーフにしたものに見えるし、目で確認せずにつかめば間違えてしまうが、しかし見た目からして材質が違う。銅ではなく、陶器のような材質……いやこれは、魔石そのものだ。そうミスティエルはすぐ気づいた。それも、巧妙に隠された刻印魔石であった。
刻印魔石とはあらかじめ詠唱文が魔力的に彫り込まれた魔石のことだ。この類の魔石からは書き込まれた魔法しか使えない代わりに、使用の際に詠唱を必要としない。最悪その中身を知らなくても魔法を使える。まさに今のような状態でも使えるものだ。正しく制御できれば、だが。
害になるような魔術が込められている感じはなかった。だけど実際これが何なのかわからないので、とりあえず魔力を込めることにした。
その瞬間、感覚が研ぎ澄まされる。その中でも特に明晰に見える道のりがあり、そこを辿ればいいのだとミスティエルにはわかった。
もはや周囲の町人の視線すら、大したことに感じない。
大通りから裏道へと足を向け、道ならざる道の影を進む。
その終着へと至ると、年季の入った立派な一軒建ての店が目の前に現れた。