目覚め II
「何をしている。その女をつまみ出せ」
そうオルタスが言うが否や、使用人はミスティエルを取り囲むような体制となり、各々の武器で威嚇する。
当惑するミスティエルの腕を掴むものがあった。かつての世話役のメイド、ザローテの手だった。彼女はそのままに、ミスティエルを無理に部屋の外へと連行していく。
「ザローテ、ふざけないで! この私にこんなことして、ただで済むと思ってるの!?」
そんなミスティエルの言葉も、ザローテは全く無視しているようだった。そのまま、屋敷の外へと向かっていく。
ついには門の外に到達して、夜の暗闇と、わずかな魔力灯の明かりの元へと放り出された。
「ねえザローテ、冗談でしょう? 今なら許してあげるわ、ねえ!」
三日月の下、ザローテは薄く笑った。
「ねえ、お嬢様。私はお前のような人間は大好きですよ。私は孤児院の生まれでね……小さいころには食料を子供同士で奪い合って、スラムを通りかかる危ない金持ちから金目の物を剥いで暮らしていたんです。そうしてそのうちに、暗術の才覚に恵まれて、出世して、王国一の天才暗殺者としてあがめられ、侯爵家の護衛にまでなったんですよ。そう、私は選ばれた人間なんですよ!」
まるで狂信者のように両手をパッと広げる。虚ろな目をしてしがみつくミスティエルをにこやかに眺めた。ザローテは興奮して震えていた。
「おっと話が逸れて失礼。つまり私は選ばれた人間なのに、ただ貴族に生まれただけの選ばれざる凡人が、私以上に恵まれているのは、おかしくありませんか? だからねえ、お前のように、没落するクズを見ると満足するんです。やっぱり、私こそが選ばれた存在なのだとね! はは、どうかみじめに生きて、噂でもまき散らして、できる限り私を楽しませてくれよなあ、このクソ下民が!」
なおしがみつくミスティエルの脇腹を、ザローテは暗器の小刀で薄く切りつける。大したことのない、それこそ平民ならば気にも留めないような浅い傷だった。それでも、ミスティエルからしたら十分に恐怖をあおられるもので、涙声で悲鳴を上げた。
「ああ手が滑ってしまいましたねえ。しかし私は侯爵家勤めのエリート、お前は寄る辺ない浮浪者! 誰も、これを、とがめない!」
ミスティエルでも流石に危機を感じたらしい、左の腹を抑えつつ逃げ始める。当然道などわからない。明かりが続いてる方向に、ただ釣られてついていく。
しばらくしてミスティエルがいなくなると、ザローテは真顔に戻り、誰に聞かせるでもなく小さな声で吐き捨てた。
「二度とここに近づかせない為とはいえ、怖がらせすぎましたかね。あんな奴の行方など、誰も気にしないのに、勘違いして怯える姿はまあ面白かったですが」
ミスティエルが光に沿って歩いていくと、偶然豪華な馬車が止まっているのを見かけた。もしかしたら知ってる人がいて、助けてくれるかもしれない、そうミスティエルは淡い期待にすがった。思わず駆け寄って、そうして中に入ろうとすると、当然護衛がそれを拒むように押しのける。軽く問答になっていると、騒動を聞いた中の貴族が外に出てくる。
ミスティエルは思わず顔を綻ばせた。中にいたのは取り巻きのラーミアだったからだ。ちょうど夜会の帰り道だったのだ。
ラーミアはミスティエルを見て、驚いた。夜会の豪華なドレスのままだったが、その下の方は泥まみれだし、何より脇腹には裂けた跡があり、血もにじんでいる。
「ミスティエル様、そのようなおいたわしい姿で、どうなされたのですか」
「ザローテが、私のメイドが、いきなり私のことを斬りつけたのよ!」
「それはひどい。ミスティエル様、おかわいそうに……」
そう慈しまれて、思わずミスティエルは泣いてしまった。夜会の終わりからずっと、周りから冷たい態度をとられ、脆いミスティエルはすっかり傷ついていた。
だから思わず、続けて事情を説明してしまう。
「何もかもおかしいの。ノイは婚約破棄したいとか言い出すし、パパにはいきなり怒られて、外に追い出されたの。こんなのおかしいわよ、ね」
「へぇ……」
そうラーミアを見上げるミスティエルは、涙で目が潤んでいて、隠しきれないほどに上げられたラーミアの口角にも気付かない。
ミスティエルはしばらく待たされた。ラーミアが誰かと連絡を取っていることだけはわかった。
そうしてしばらくして、帰ってきた。
「ねえ、ミスティエル。あなた、一族から追放されたんだってね」
「そんなの、きっと嘘だわ!」
即答するミスティエル。自分でもまだ、きっと嘘だと信じていたからだ。だけどラーミアの反応は冷たかった。
「ふふ、そうね、嘘かもね、ふふふ……この女を馬車から追い出して頂戴!」
従者によって馬車から突き落とされ、地面へと打ち付けられたミスティエルは、ラーミアを縋るような眼で見つめる。おもわず思いが口に出た。
「なん、でなの……っ!」
「そうね。私の友人の名前は、フルミヴェンなのよ。ミスティエル・レイティア・フルミヴェンって言うの。ただのミスティエルじゃないわ。」
「何が言いたいの! 訳わからない、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
ラーミアの拒絶の言葉を理解できなかったミスティエルは、必死で馬車にしがみついた。ラーミアはミスティエルの頭の回りの悪さに流石にイラっとして、さらに責め立てた。
「ねえ、ただの平民風情が、このラーミア・エスティ・コミルシクト様に、そんな口をきいていいと思ってるのかしら? わたし、コミルシクト子爵家の次女なのよ?」
「わたしは平民じゃないっ! 何よ、おかしいわ!」
「はは、好きにほざけばいいわ。ねえ御者さん、さっさと馬車を出発させて?」
ミスティエルを置いて走り出す馬車の上から、思い出したようにラーミアが彼女に声をかけた。
「ああ私ずっと、ミスティエルのこと、大嫌いだったわ。いい加減に、解放されてよかったわ」
馬車は去って、ラーミアの姿はすぐに見えなくなった。
それからずっと、ミスティエルは心を折られて、完全に呆然としていた。意識があるようなないような状態で、打ち捨てられた地面にそのまま座り込んでいた。
都市の住民は夜の間は、いつも高慢な彼女が一人ぼっちで夜の街で座っている理由がわからず、できるだけ関わらないようにミスティエルを避けていた。
だが夜が明けて、どうやら一族から除名されたようだと、そう真実が伝わっていくと、町人の向ける視線はほとんどの嘲笑とすこしの好奇へと変わっていった。
空も明るくなってきて夜会から数時間経つと、今までの疲れもあって、ミスティエルは腹が減って仕方ない。
「そこの愚民、私おなかがすいたの、さっさと飯をよこしなさいよ!」
そう勇気を出して道行く町人に話しかける。
「新しい服をよこしなさい! 体が汚れて気持ち悪いから、だれか綺麗にしてくださらないかしら?」
次々とわいてくる欲求をねだる。だが鼻で笑われるだけだった。最初のうちはミスティエルはいちいち怒っていたが、やがてその気力も失せた。
「ほら、飯だ、食えよ」
そういわれてなにやら地面に物を投げつけてくるものもいたが、それがミスティエルにはご飯には見えなかったし、食べ方もわからない。
嫌がらせをする者もいる。そういう人は彼女の悪評を、わざと聞こえるように彼女の前で吐き捨てるのだ。
もっと酷い人は、棒でつつき、汚れた水をかけて、軽く殴ったり蹴飛ばしたりしていくものだ。もっともミスティエルは服の着替えもできない。すでに半日も着ていれば、贅を尽くして作られた夜会のドレスですらみすぼらしく見えるほど汚れきっていて、今更そんなことは関係ないほどだった。
さらに日はのぼって、昼頃になると、すでにミスティエルの意識は半分無くなっていて、今まで経験したことのない空腹と疲労以外のことは考えられない。目の前に荒々しい男の二人組が現れた。
「お嬢様、遅くなって申し訳ございません。もう大丈夫ですよ、ついてきてください」
そう言われてフラフラとミスティエルはついていった。とても堅気には思えない風貌と、ところどころ怪しい敬語だったが、もうそこに気づく余裕もない。
そうしてしばらくついていったところで、限界だった。ミスティエルはついに倒れた。男の二人組の一人が、倒れたのを抱え上げる。
「ねえ、大丈夫なんすかね。さすがに王族の遠戚でしょう? こんなのに身体を売らせたら、いろいろまずくないっすか」
「危ないけどよ、一攫千金の大穴だぜ、こいつ。とびぬけた美貌に、悪名高い経歴に……世間知らずの美女を犯せるなら、いくらでも金を積むやつはいる。どうせ俺もお前もクソったれた人生だ。一賭けしてみようや」
「ま、そうっすね。つかまって殺されるならそれでもいいや。はは、面白くなってきた」
大男二人と肩に担がれたミスティエルは、そのまま町の裏路地へと消えていく。
ミスティエルは夢を見ていた。
優しい家族と、姉のように慕う使用人と、楽しく語り合っている自分がいる。
目の前に最愛の恋人が現れ、自分に微笑みかける。
――そこに羽をはやした、大きな化け物が現れて、その愛しいすべてを焼き尽くそうとする。
でも恋人と二人で対峙するのだ。最初は敵いそうになかったけれど、やさしげな年上のお兄さんが現れて、自分と恋人にいろんなことを教えてくれて。
そうして、最後に丘の上で、恋人と愛を誓いあい、化け物を退治する。夢はハッピーエンドで終わって。
夢の場面は唐突に変わる。最後には何もなくなって、真っ暗な夢の中で、声が聞こえる。
『ああ哀れなる娘よ、汝の盟約は破られて、故に再び自由は払い戻された』
聞き覚えのない、意味も分からない異国の言葉で、だけどどこか懐かしい言葉が脳内に聞こえた気がして、意識が目覚め始める。
そうしてミスティエルは、夢から醒めて、現実に飛び起きた。
ミスティエルは目覚めた。古びていて、貧民が住むような小屋だった。そばには誰もいないが、一階のほうから人の気配がするのが分かった。それでここは二階だと推測できた。
腹が減っていたし、それ以上に酷く喉が渇いていた。周りを見渡すとすぐそばの木の台の上に、硬そうな黒パンと鉄のコップに注がれた水がある。思わず手を伸ばし、コップの中の水を口に含んで、しかしミスティエルは変な味がして、思考がその正体に突き当たると、即座にすべて吐き出した。
毒が混ざっていたのに気付いたのだ。レンラームと呼ばれる植物の茎から抽出した毒物の味がしたからだ。そこまで思い出して、ミスティエルはさらに思考を奥へと進めた。レンラームの効能は、思考能力の低下と、異常興奮、嘔吐と麻痺の恐れ。生産地は王国西部エスタルが中心で、王国貴族クヴェネストはこれを武器に王国暗部に根を張っていて、主に使われる用途は洗脳と自白、あるいは対象の廃人化。相場は通貨相場平均で西部――。
ミスティエルの思考は暴走していた。糖分は足りないし、頭もぐらぐら痛むのに、それでも思索を止めることができず、脳の奥からどんどんと情報が溢れてくるのが留められない。まるで今までの脳内を支配していた靄が取れたように、あるいは思考を邪魔していた頭の中の大きな石がいきなり無くなったようで、全能感と虚脱感が同時に襲ってきた。
レンラームを誤って口にしたとしても、これより強い快感は得られないほどだった。思わず過呼吸になる。下の住人に起きたことが気づかれないようにと、必死で抑えて、しばらくしてようやく感覚が落ち着いてくる。
ミスティエルはそこでようやく当然の疑問と、当然の不安感に直面する。そうして、息をするような小声でつぶやく。
「ここはどこだ。全くわからない。いまは何時だ。少しもわからない。私は誰だ。私は――」
そこで一度間を置いた。目の前の壁を無意識に睨みつけて、そうしたら自然と口をついて出た。
「私は――私は、ミスティエル・レイティア・フルミヴェンだ」
そう口にして、ようやく。まったくの危険な場所だというのに、まるで居るべき場所に帰ってきたかのような安心感が胸に広がったのを、自分自身で感じたのだ。