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窪み  作者: ふぁってぃ・りばー
1/1

前編

裕福な家に生まれ道楽者と囁かれた祖父は常々私にこう教えた。

精神的に向上心のない者はばかだと宣い「道」のために禁欲的生活に勤しんだ大学生はどういう訳か自殺した。

一方三年三ヶ月寝ていたように思えた庄屋の息子はその間の熟慮の甲斐あって大事を成し遂げた。

つまり、大事を成し遂げたければ常々気を張るよりはむしろその瞬間に備えのんびりと構えているべきであり、彼はその考えに基づき十年の充電期間を経た末に京の都へと上り山鬼を退治し美女を娶り大納言へと昇進したのち郷里へ錦を飾り道楽に勤しんでいるという。

そんなふうに偉大なる祖父の教えを受け継ぎ邁進するうちに、友人達は私のことを親しみを込めて「物草」と呼ぶようになった。



昼休みを知らせる鐘とともに大学に入った。

大学を入って左右に聳え立つ煉瓦造りの建物が四号館と五号館、さらにその奥で新入生を威圧するべくえへんと胸を張るコンクリートの塊が七号館と八号館である。

さらに両館を過ぎ銀杏並木を進んだ先、大学の中央部に屹立するドーム状の建築物こそがこの学び場の象徴である教会堂であり、この教会堂とここに集う信仰者の総体を教会と呼ぶということを一年次のオリエンテーションで習ったが消極的無宗教者である私には縁のないことであったのであまり気にとめなかった。

さらに教会堂からの別れ道を左へ進むと北側にはテニスコート、運動部室棟、四号館こと体育館などが点在しており、南側にはカフェやらジムやら本屋やら自習室やらを備え付けて余りある巨大な六号館が聳え立ち、その近代的な建築様式は新宿のオフィスと見紛うほどである。

一方教会堂を右に進むと南側には一号館、二号館、十号館、十一号館などの未改修の古株たちが疎らに屹立しており、その中央のあたりには軽音楽部室棟とでも呼ぶべき改修されたてピカピカの文化部室棟が場違い感を醸し出しつつ昼夜問わず青春の証を喧伝している。

一方北側である。

北側は甲斐国の如く四方をを坂道囲まれる盆地ならぬ窪地と呼ぶべき僻地であり、廃墟同然の三号館がぽつんと存在するのみ、坂の上には六号館に半身をもがれて満身創痍の図書館が息も絶え絶えに健気にもそのレンガ造りの身体を支えている。

窪みの底は深淵に通ずるというのが学生達の通説である。

寂れた三号館には「軽音楽サークルambitiousの変」(別称「佐久波の変」)にて文化部室棟から追いやられた深淵の住人の如き青白い顔をした文化部生たちが蠢きながら不毛な活動に勤しんでいる。

かく言う私もそこの住人の一人であるので、ぬるりと上げられる手に会釈を返しながら自らの住処である部室へと足を運んだ。

途中少々の眠気を感じささくれ立ったベンチへ腰掛ようとすると、思わぬ先客がおり心を奪われた。

夜闇のごとく曇りのない漆黒の毛皮に、浮かぶ満月のような琥珀色の愛らしい瞳が二つ。

「愛くるしい毛玉ちゃんよぅ。」

このような時に備え携帯していた猫じゃらしを懐から出して、私はその黒いふわふわにそっと近寄った。

彼女は半目がちになりながら面倒そうに私に構ってくれ、時折その鞠のような頭を撫でようとする私の手を乱暴に跳ね除けては「ふしゃーっ」などと不満を漏らした。

ひとしきり遊んでもらった私は彼女に礼を言ったあと、激しい運動によるエネルギー消費で疲れ切った身体を休めるべく再び部室を目指した。

今私の身体を動かすのは先程補充したばかりの猫ちゃんエネルギーのみである。



部室の畳の上では見るに堪えない半ケツ野郎が見るに堪えない姿勢で寝そべっていた。

面倒ながらも汚ケツを足で蹴り跳ね除け自らの領土を獲得する。

隅に追いやられたそれはむくりと起き上がり、やがて狸のような垂れ目でこちらを見ると「遅かったじゃないか」と言いながら背骨をボキリボキリと鳴らした。

彼は名を今若好太郎という、私の幼なじみである。

故郷にいた頃は大人しく理知的で名だたる偉人の幼少期はこのようであっただろうと言われたほどであった彼だが、大学に入学した時に何かが弾けたのかはたまた頭のネジを全て落としたのか、その双方であるのかは分からないが、実質活動のない軽音楽部に所属しつつ犬の愛称を連呼する人種となってしまった。

そうして女子達からは思惑と異なり冷ややかな目で見られ過ごし一年がたった頃、彼はある行動を起こした。

どうやったかはわからないが本来煌めくものがあったその頭脳をフル活用し、当時軽音楽部全体を統括していたバンドのリーダーを蹴落とし軽音楽部の頂点に躍り出た。

しかし奢る平氏は久しからず、三日天下と間では言わないまでも1年天下で進級とともに蹴落とした相手に今度は彼が蹴落とされる番となった。

栄光と転落から二ヶ月、私ともう一人の幼なじみが所属するサークルに亡命してきて以来生来の落ち着きをようやく取り戻したものの、昼寝する私の背中とともに再決起に向けた会議を開きつつ雌伏して時が至るのを待つ不毛の日々を送っている。

「そう言えば禰子さんはまだ来ていないのかい?」

私はこのサークルに所属する、もう1人の幼馴染みについてたずねた。

牛島禰子ーその名は大学内外問わず有名である。

威風堂々豪放磊落天下無双ネギの他に弱点はない無敵の牛島。

その伝説は入学当初、今若と共に行った新入生歓迎コンパニオンにおいて犬の愛称を連呼しつつ肩を組みどさくさに紛れ乳を触ろうとした先輩を門外不出の奥義「山嵐」で沈めた逸話に始まる。

東に病気の後輩あれば行って看病してやり、西に横断歩道を渡るおばあちゃんがあれば英国紳士のごとくエスコートをし、南に単位がヤバい我々がいれば文句を言いつつ面倒を見、北に執拗いナンパ師がいれば狼の目と呼ばれる琥珀色の鋭い眼光で追い払い同級生や後輩、更には先輩までも守った。

そんな訳で彼女は女子を中心とした圧倒的名声を集めながらも驕らず輪の中心を避け颯爽とその場を去るのであった。

なぜそんな彼女がこのような深海でサークル活動に参加しているのかは謎である、竹馬の友である我々にもわからないのだからもう謎だ、本人すらわかっていない可能性すらある。

「彼女ならコンビニへ行ったのではないかな、またいつものだろうよ。」

今若はそう言いつつ部屋の隅の空き箱の山を一瞥する。

彼女は固形栄養食のチョコレート味を好み日々の昼食とし、我々はその箱でジェンガを楽しむという完璧なサイクルを確立していた。

戦場の猛者よろしく速やかに口へ運び淡々と食事を済ませる様は彼女の男振り

をさらに上げているように思えた。

「しかしそれではまた、タンパクゲンガタリナイゾ、と北條君に言われてしまうねぇ。」

私はこのサークルにおいて唯一の大学入学後に知り合った風変わりな男を思い浮かべた。

北條金三郎、誰が呼んだか「ミスターストイック」。

我々三人が遊ぶん学部こと文学部所属であるのに対し、彼は経済学部であり我々が忌避する数学をいとも簡単にこなし単位は全て最高値、ボディビル部にてその心身を鍛えつつ我々と共に不毛のときを過ごすのにも余念が無い。

さらには竹下夢二の絵画から出てきたのではないかと噂されるら四つ上の細君との甘い生活も充実させる等、我々との交流を除いてその生活には無駄がなかった。

しかし最近はボディビル部に存亡の危機が迫っているらしく、そちらに奔走しており、久しく顔を合わせていない。

「どうもボディビル部の部長が退学に追い込まれたらしい。」

今若はどこから情報を仕入れたのかそんなことを言った。

「何かやらかしたのかい?ドーピングをしたとか。」

「いいや、それがどうも軽音楽部絡みらしい。

恐らく佐久波が絡んでいるのだろう。」

佐久波、と口にして彼は心底嫌そうに口をもごもごと動かした。

佐久波とは現在軽音楽部団体を取りまとめるバンド「ambitious」のリーダーである。

楽器も歌も全く心得のない彼だが風紀委員会長とは何故か仲が良く、彼を通じて部員の単位を融通し名声を欲しいままにしていた。

そうして高めた名声によって今年、今若を蹴落としたということである。

私は顔を合わせたことがないのでよくは知らないが、部活の後輩に執拗なセクハラメールを送る、ナンパした後輩女子に投げ飛ばされた等の悪名は度々耳にしていた。

「乳と尻しか頭に無いやつだがそれが絡むと手に負えないやつだからな。

女子部員をぼんきゅっぼんっ、とさせるためにジムを実質占領していると、この間北條が嘆いていたよ」

今若は先程口にしてしまった不快感が拭えないのか、彼は緑茶を口に含んでは口をもごさせている。

「救いようのない破廉恥な人なのだねぇ、私は穏やかに過ごしたいから出来れば生涯関わりたくないねぇ。」

「そうはいかぬよ、お前には俺の復讐を手伝ってもらわねばならないからな。」

都合の悪い話になってきたので急に眠くなってきた、睡眠欲には抗わないのが信条である。

「そりゃないよ、焼肉奢ったじゃないか。」

「喉元過ぎれば忘れるものだよ。」

邪魔をするな、まぶたが重いのだ。



逃亡のためであったとしても私は睡眠に対しては真摯に向き合う。

寝ると決めたら絶対寝るのだ、こちとら毎日睡眠十二時間のベテランだ。

最近では夢現のくべつがつかなくなるほどだ、つねると言っても頬を寝ながらつねっているかもしれない。

そのような時は奇想天外に楽しいほうが夢であると思うようにしている。

節々の痛みを感じながら身体を起こす、どうやらベンチで寝てしまったようだ。

覚醒するにつれギョッとする、先客の猫氏を踏み潰してしまってはおるまいか。

杞憂だと言わんばかりに黒い塊が私の腹の上で飛び跳ねる。

おお愛らしき毛玉ちゃんよ

私は常のごとくその鞠のような頭を撫でようと手を伸ばし、常のごとく払われた。

そして彼女は不満の声を上げる「いい加減にしてくれないか。」

誓って言うが私は動物の声を代弁し「ご主人様だーいすきっ」みたいなことをほざく不毛な試みをする者ではない。

つまり私の脳がおかしくなったのでなければ目の前の猫が私にも理解できる言語を発したのだ、これ程奇想天外に楽しいことがあろうか。

つまりこれは夢だ。

惰眠を貪り夢を見続けて長いが、これ程までに楽しい夢は両手両足の指で数える程にしかない。

そのような時には常々私は全力で楽しむことにしているので、今回もそうすることにした。

猫さんは私の胸部を愛らしき肉球でてしてしと叩いた後、ついて来いと言わんばかりに走り出した。

喋れるのであれば喋れば良いのに、いつもの夢ならそうしていたぞ、何とも奇天烈な夢!

猫さんはこの窪地の坂をひたすら下っていく。

窪地の底へ向かっていくのだな、そして窪地の底は不思議の国へつながっており私はアリスのごとき奇想天外の冒険をするのだろう。

『不思議の国の物草ありす』和洋折衷のモダンな感じがして良いではないか、いささか語呂が悪いが。

夢の中で想像したもののうち六割は実際そのようなものとして現れるという独自の経験知があった。

果たして今回は六割の方が勝ったということか。

窪みの底には渦巻く異界の入口があり、猫さんに続いて私はそこへ躊躇いなく飛び込んだ。

いざ素晴らしき冒険へ。

全身をこねくり回される不思議な感じ、最も近いものを挙げるとすればウォータースライダーであろうか。

その手の遊びに共通して言えることだがそれまでのワクワク感に違わぬ楽しみを提供しつつもあっという間に終わってしまうもので、気が付けば私は小高い丘の上に座していた。

妙に頭が重い。

「なるほど、凹の反対は凸ということかね。」

眼下には京都と東京のいいとこ取りをしたような街並みとネギ畑が広がり、上空には巨大な観覧車やジェットコースターが浮かんでいる。

これは私以外の誰かの夢の中だな、そう私は本能的に確信した。

私は頭の比率が大きかった幼少期に思いを馳せながらひとまずここを探索しようと考えた。

何事も冒険である。

丘を下って行くとそれまで無人に思えた街並みの中を走る影をがあったため、私は咄嗟に身を潜めた。

左から青、黄、赤のヘアースタイルには見覚えがあった。

あれは日頃今若が「このルーマニア国旗め」と罵倒しながら五寸釘を打ち付けていた写真の主、佐久波先輩に違いない。

「それならこれは佐久波先輩の夢の中か?」

しかし意外である。

彼の夢の中であるならば壁一面床一面天井一面を余すことなく乳と尻が並んでいそうなものだ。

「彼の夢の中だったら確かにそうなってそうなものだね。」

不意に、頭上から鈴の音のようにころころと笑う声が聞こえてきたことで、ようやく自分の頭が重い原因を解明した。

恐るべきバランスで私の頭にしがみついていた彼女は持ち前の身軽さでくるりと一回転すると、華麗に私の眼前に着地した。

「着いてきて。」

彼女は今度こそ、そう口にすると、てってと走り出した。


佐久波先輩はいつの間にか忽然と姿を消してしまったようである。

洒落た街並みを通り延々と続くネギ畑を過ぎた先には閑散とした住宅街が、何かから隠すようにひっそりと置かれていた。

埃を被ったオルゴール箱を久しぶりに開けた、そんな心地がした。

学校帰りに三人でよく遊んだ公園、夏休みに飛び込んで怒られた川と煉瓦橋、橋を南に進んだ神社の横には着物屋と提灯屋、向かい側には対抗心むき出しの教会堂、新聞店と郵便局の間を通って進んだ坂の下にあるのは我らがひみつ基地。

ひみつ基地に入る時には注意しなければならない。

正面入口は偽物で、迂闊に進めば水風船爆弾が降り注ぐ。

裏手にまわって獣道を進み、子ども三人がかりでぶら下がる綱を引けば扉が開く、大人の私であれば一人で平気であった。

基地へ入るのは三人揃ってでなければならない。

今若が罠を張り、私が防衛について献策し、禰子さんの武力を主軸としてそれを実行する。

基地の中には見張り台やゴム鉄砲で狙い撃つための穴に、週刊誌の束と壊れたテレビにゲームボーイアドバンス、箱いっぱいの駄菓子、落城時に備えた脱出溝まであった。

ああ在りし日の理想郷よ、しかし決してセンチメンタルになったりはしない。

悪逆なる大人達による工事の手が入り落城が迫るその時、我々は創建当初より麒麟児今若が備え付けていた自爆装置を起動させ、一夜にして引き払ったために翌朝作業員たちは丁寧にまとめられた木材を前にして狐につままれた気分になったという。

我々は大変物分りの良い小学生であったので、大人に迷惑はかけなかった。

ああ、しかし懐かしの理想郷には「本物」と違い、禰子さんが欲してついには手に入れられなかったピンクのローラースケートが玄関口に綺麗に揃えられていた。

「ふむぅ、さてはここは禰子さんの夢の中だね。」

そう私はベイカー街の名探偵ぶりながら、三流探偵でも解ける謎を解明した。

しかし妙だなとも思う。

彼女の夢の中に、よりによって彼女が最も嫌う人種である佐久波が出てくるとは考えにくい。

「お察しの通りここはあなたと今若君の幼馴染、牛島禰子さんの夢の中よ。」

猫さんの後を追う形で、気が付けば私は巨大なベルトコンベヤーの前にいた。

ベルトコンベヤーは巨大な馬の耳の中へつながっており、黒いダンボールを次々と運んでゆく。

「彼女は人間関係のドロドロとしたものを目を通さずに梱包して馬の耳に東から流し込んでしまうことで、それにとらわれないように生きているの。

おかげで彼女はノンストレスの無敵の日々。

夜九時には寝て朝六時には起きる、健康生活そのものよ。

でも最近、そんな彼女の安寧があるものによって乱されつつあるの。」

そう言うと猫さんはどこからともなくホワイトボードを取り出した。

そこにはルーマニア国旗こと佐久波先輩と、葛飾北斎が描いた『貘』のポストカードが貼られていた。

「夢魔・貘・夢歩き……他にも色々な呼び名で呼ばれている連中がいてね。

通常は夢と夢を渡り歩いては栄養源である悪夢や取るに足らない夢を食べ暮らしている温和な奴らなの。

ところが今から二十数年前、彼らの中の異端児とも呼べる変態が生まれてしまった。」

そう言うと猫さんはルーマニア国旗をペちこん、と叩いた。

「こいつはうら若い乙女を中心としてその夢の中、禁忌とされているその深奥部までじっくり物色しては悪友である「覗き魔」へ情報提供をしては彼の趣味であるストーカー行為を助けているわ。」

ホワイトボードに、散切り頭の薄ら寒い丸メガネがサムズアップしている写真が浮かび上がる。

全身がさぶいぼ立ち、思わず身構えた。

彼こそは邪智暴虐の風紀委員長「野削迫」。

権力を独占しては生徒を脅す卑劣漢。

件の「佐久波の変」にも一枚噛んでいたという。

うら若き乙女に対し執拗なメールで迫り、後輩女子にセクハラをし、最近では人妻にまでストーキングを繰り返しているとの噂だ。

話によるとどうにも、この陰湿メガネは禰子さんが後輩を庇い反抗してきたことで、癇に障ったのか今度はその標的を禰子さんに移したらしかった。

しかし禰子さんは鉄壁であり、また、やたら幼なじみたちを連れ回し居酒屋を転々とするために、如何ともしがたかった。

現実が駄目なら、夢を狙えば良いじゃない。

どういう訳か佐久波先輩の正体を知っていた糞眼鏡は謀略を巡らせ、共同して禰子さんの安眠を妨げた。

「おかげで彼女、今では毎日夢見が悪くて、毎朝食べる好物のコーンフレークも2杯ぐらいしかお代わり出来なくなってしまっているわ。」

ぐるぐると腹が鳴るのを感じた、腸が煮えくりかえっているのか、それともコーンフレークへの渇望なのかはわからない。

しかし、「物くさ」と呼ばれ、穏やかさのみが取り柄である私としては、珍しく、とても腹を立てていた。

常々怠け者と呼ばれ極力人間関係のしがらみにはとらわれぬようのらりくらりとかわし、他人の価値観には触れずを信条としている。

だが、そんな私でもひとつ分かる明確な「悪逆」がある。

貴重な睡眠の時を邪魔することだ。

外部から揺すり起こされるのですら少々腹が立つのに、それが内部から、しかも意図的に為されたものであるとしたらどれ程腹立たしいことであろうか。

大事に取っておいた高級プリンを食べられた方がまだましというもの。

私にとって少々関わりたくないだけの人間が、明確に敵となった。

三色頭倒すべし、糞眼鏡倒すべし。

心血を注いだ自慢の演説は、猫さんに笑われた。

あなたらしいと、とても快活な様子で


部室で眠りこけていたらしい。

必死に謀略に巻き込もうとしていた今若は、根負けして帰ったようだ。

楽しい夢を見ていた、その余韻に浸りつつ体を起こそうとするも、起き上がれない、何かがおかしい。

頭が重いのだ、猛烈に。

はてさて寝違えたかな思いつつゆっくりと目を開けると、見慣れた顔がそこにはあった。

左手で私の額を押さえつけ眉間をゴシゴシとやっている。

もしも私が厚塗り化粧のギャルだったならば大惨事であっただろう。

「おはよう、眉間にすごいシワを寄せてたけれど、悪い夢でも見ていたの?」

私の目が開かれたと言うのに、彼女の行動はそのままである。

抵抗しようにも力では完全に彼女に分があるため早々に諦めた。

「いや、随分と楽しい夢を見ていたと思うよ、楽しみすぎて珍しく熱くなってしまうくらいには。」

事実、あんなに楽しい夢は久しぶりだった。

あれ程奇想天外で面白く、実りのある夢はそうはないだろう。

それはそうと、だ。

禰子さんは随分と大荷物であった、心無しか少々疲れ気味にも見える。

「ああ、ちょっと知り合いに柔道を教えて欲しいと言われていてね、別に私習ったことないし、親父の見様見真似なんだけれどなぁ。」

禰子さんの親父殿は故郷で柔道教室を開いていた。

熊のような見た目に反し、物腰穏やかで理知的な人で、禰子さんの家に遊びに行くといつもココアとモンブランをくれる優しいおじさんであった。

親子でも中々にないものだなぁなどと思っていたが、しかしその界隈では「不敗の鬼」と呼ばれる強さを誇る人物だと後で聞いて、やはり本性は似通っているのかもしれぬ、とも思ったものだ。

いずれにしても、我々幼なじみは全員、習い事をするくらいなら探検をする腕白であったので、牛島道場に師事することは無かったが、門前の小僧習わぬ経を読むということか、それとも鬼の血か、禰子さんは達人級に強い。

私はもちろんのこと、今若や、さらには筋骨隆々の「ミスター・ストイック」、北條君すら投げ飛ばしてしまえるだろう。

そんな彼女であるから、向かうところ敵なしであろうとは思うのだが……。

「禰子さん、最近なにか困り事とかはないかい?」

私は先程の夢のことが気になっていた。

夢もうつつ、うつつもまた夢、どうして夢だからと気に留めないことがあろうか、ましてや睡眠のエキスパートである私の夢である。

「そうね、ちょっと最近睡眠不足だわ。」

禰子さんは悪戯っぽく、くすっと笑った。

琥珀色の瞳が薄暗い部室の中で輝いていた。

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