負けた諸君も勝った諸君も、胸を張れ
全ての高校球児に捧げます。
私にとって夏は、子どもの頃から憂鬱な季節だった。
外はミンミンとセミがうるさくて、ムシムシとした空気に腕がべたつく。
私は三人兄弟の一番下だ。一番上の兄は野球部で、私は小学校、いやもっと小さな頃から、暑い中を母親に連れられて兄の野球応援に行かなければならなかった。
小さかった私が長い試合を楽しめるはずもなく、私はいつでもぼーっと座っているだけ。小学校の高学年になって留守番が認められるようになり、ようやく解放された時は本当にうれしかった。
「アンタも運動部に入りなさいよ」
母はよくそう言ったけれど、暑いときに走り回るなんて私には無理な相談だ。野球場で座っている時ですらつらかったというのに。
そんな母も子どもたちが大きくなってからはパートに出るようになった。大型スポーツ店のパートだ。スポーツ好きの母にはぴったりで、晩御飯にはいつもナントカ中学校の子が来ていただの、カントカ小学校の横断幕を作るだのという話題を提供してくれる。
そんな母を二人の兄は「ふーん」だの「あ、そう」だの気のない返事で返すばかりだが、私はちゃんと話を聞いてあげているもんね。暑いスタンドでじっと座っているのに比べたらお安い御用というものだ
居間のクーラーのリモコンを手に取り、スイッチを入れる。涼しい風がぶおーっと出て来て眉を顰めた。
「もうっ、また強風にしてる」
一番上の兄の仕業だ。兄はいつも強風にしてしまう。冷たくて強い風は嫌いだと、私が何度言っても聞いてくれないのだ。
エアコンを弱に設定し直し、居間から続くキッチンに入って冷凍庫を開ける。大好きなカップアイスを取り出してパカッと蓋を開け、私はそれを冷凍庫に戻した。
「もーーーっ!また、私のアイス食べてるっ」
カツンと冷蔵庫を蹴り飛ばす真似をすると、勢い余ってダイニングテーブルの脚に当たり、じーんとつま先が痛んだ。もう!ほんと、腹立つ!!
まったく二人の兄はいつだって私の天敵だ。
友人の中にはおにいちゃんが二人もいるなんて羨ましいなんていう子もいるけれど、私に言わせれば兄なんてただただ意地悪なだけの存在だ。私はぷりぷりと怒りながら居間に戻る。
一番上の兄も、二番目の兄も、今はもう社会人になっていて、休日の今日は昼近くまで寝ているだろう。兄たちの部屋には自分たちの給料で取り付けたクーラーがあるのだ。高校生の私の部屋にはクーラーが無くて、それも私のイライラの原因だ。
怒っても仕方がないかとため息を吐き、夏休みの課題をやろうと居間のテーブルにプリントを広げる。だが頭の中には先ほどのアイスが思い浮かんで、もやもやするばかりだ。
そんな時、トストストス、と階段を下りてくる音が聞こえてきた。
イライラを叩きつけるようにギッと入り口を睨みつけると、二番目の兄が顔を出した。
「奏兄、私のアイス食べたでしょ!」
「るせぇ。俺じゃねえし」
「嘘だよ!あんな綺麗に半分にするの、奏兄に決まってるもん!」
二番目の兄は私を見ると、鼻で笑ってテレビを付けた。有名なナントカ高校ファンファーレと歓声がやかましい。
「もうっ、勉強してるのに!自分の部屋で見たらいいじゃん!」
「お前、まだ課題終わってねえの?バッカじゃね?」
「野球嫌いなのにーっ」
私の問いには答えず、兄は暴言を吐く。
「右中間ヒット―――っ!ノーアウト1塁です!〇〇高校、9回の裏でようやくランナーが塁に出ました!同点のチャンスです!!」
アナウンサーの興奮した声が部屋に響く。
私は課題を見てため息を吐き、自分の部屋に戻って財布を取り出した。今月のお小遣いはあと千円札1枚しかない。
「奏兄、コンビニ行ってくる」
「アイス」
「まだ半分残ってるじゃん!」
眉間に皺を寄せて怖い顔を作るが、兄は鼻で笑うばかりだ。
「ワンナウト3塁。一打同点のチャンスです。佐藤さん、ここはスクイズでしょうか」
「いや、5番の鈴木君は今大会は当たってますからねぇ。打たせるでしょう」
「おや?敬遠!けいえんですっ!」
「いや、勇気ある判断だと思いますよ」
アナウンサーと解説のやり取りに、ついテレビに目を向けてしまう。いつの間にか試合は進んでいて、アウトがひとつ増え、ランナーも3塁まで進んでいた。盗塁でもしたのだろうか。
「おい、暑いっての。見るなら中入れ」
「あ、うん。ごめん」
野球なんて大嫌いだと思いながら、こうして見てしまう自分が恨めしいが、どうにも試合の行方が気になってしまう。
「ワンナウト1、3塁!スクイズを警戒してファースト、サード共に前進守備!センターも前進しています!」
「△△高校はダブルプレーで試合を終わらせたいでしょうねぇ」
ギシギシと耳障りな音がして顔を向ければ、兄はソファで寝がえりを打ってテレビに背を向けていた。
「奏兄、テレビ見ないの?」
「るせー。ねみぃ」
「部屋で寝ればいいのに」
私が口を尖らせたとき、キン、と軽い音がテレビから流れてきた。
「うーちーあーげーたーーーっ!打球はライト定位置!3塁ランナーはタッチアップの構え!」
私は財布を手に立ち上がる。
「行ってくるね」
ソファでだらける兄に声を掛けると、手ではなく足を上げて答えた。
玄関でサンダルを履いていると、試合終了のサイレンが聞こえてきた。
ペタンペタンとサンダルを鳴らしてコンビニに向かいながら、一番上の兄の最後の試合を思い出す。母は当然応援に行っていて、私はクーラーを付けた涼しい家の中でテレビ観戦を決め込んでいた。
あの時も、先ほど見た試合と似た状況で9回裏で1死3塁。
3塁走者は兄だった。
打球は高く上がったセンターフライ。上空で風が吹いたのか、旗がホームに向かって翻るのがテレビの端っこに写った。たぶん兄にはボールしか見えていなかっただろう。
足に自信のある兄は、センターがキャッチすると同時にホームを目指し、アウトになった。
ダブルプレーで試合終了。兄の野球人生は兄自身によって幕が下ろされた。
ホームに滑り込んだまま立ち上がれなかった兄の姿が記憶に焼き付いている。
目を赤くして家に帰ってきた兄は、自分の部屋に入ったきりその日は姿を見せなかった。
雨が降ってもフード付きのトレーニングウェアを着て、学校まで走って行く兄。
冬の寒い夜も、白い息を吐きながら素振りを欠かさなかった兄。
お風呂から上がって腹筋して、また汗だくになって。母が怒って私が笑って。
いろんな兄を思い出すと、どうしてか目の奥がじんじんと痛くなる。
コンビニに入るとぶわっと空調の風が髪を撫でてほっと息を吐く。アイスのクーラーボックスを上から見てどうしようかと悩む。
ちょっと遠いけど、スーパーまで行けばよかったと少しだけ後悔した。
会計に向かう私の手には、アイスが3つ。
外はミンミンとセミがうるさくて、ムシムシとした空気に腕がべたつく。
家に着く頃には一番上の兄も起きているだろう。昨日は夜も蒸し暑くて、兄はきっとエアコンをつけっぱなしにして寝ていただろうから、起きたら声がガラガラになっているに違いない。
起き抜けの兄を思い浮かべると、サンダルがカツンと小気味よい音を立てた。