第一話 面倒見の良いメイルと、勉強嫌いなチャコ
魔国『ドムランボス』東南の海沿いにある港町『オルラレーヌ』。中央通り商店街は色彩豊かな石畳のなだらかな坂道となっており、西に下れば国で一番大きな港『オルラレーヌ港』へ、東へ上れば広大な敷地の旧魔王城公園へと続く。
中央通り商店街は大小様々な商店が軒を連ね、毎日多くの人で賑わっていた。二階建てから三階建てまでの建物に統一性はまったくなく、例えば白魔術店の壁は真っ白であったり、その隣の民家の壁は黄色、その隣は水色、そして木目調の装飾が施された黒色の建物があったりと、さらには必要の無い煙突のある家もあれば、三角屋根に芝生を生やしている家もある。
二週間前にドムランボスへやって来たメイル・ポスターレは、初めてこの商店街を見たとき、あまりのごちゃごちゃ感に言葉を失ったのだった。来月の四月より、ドムランボス国立魔法学校の二年生として転入するため、船で二時間ほど離れた大陸の海沿いにあるポストポート王国から渡航してきた。入学に反対する両親に書き置きを残していわゆる家出をしたメイルにとって、真っ先に港から見えた、自国の常識がいかにも通用しなそうな異国の景色はあまりにも刺激が強かった。
不安しか感じさせない港で狼狽えていたメイルを真っ先に出迎えてくれたのがチャコ・トランだった。幼い頃、一年に数回行われる各国の王族や貴族が集まるお茶会でメイルとチャコは何度も出会い、その度に一緒に遊んだ。すっかり仲良くなった二人の関係は今でも続いており、今回のメイルの家出もチャコの協力なしではありえないことだった。
活発なチャコがあちこちメイルを紹介してくれたおかげもあり、二週間過ぎた今ではすっかり異国の空気にメイルは溶け込んでいた。メイルにとってのお気に入りの場所もいくつかでき、チャコと勉強するためにやって来たカフェもその一つだった。そこで勉強しようとチャコが言ったから一緒にやって来たメイルだったが、チャコの様子は着いた時からほとんど変わらず、未だに教科書を開かなかった。
「チャコ~。分かっていると思うけどぉ……」
パソコン屋の入り口横にいた三人の天使たちのコーラスはとっくに終わっていた。約束通り勉強させるため、一年生用の教科書「基礎魔法Ⅰ」を開きチャコの前に置いたのだが、チャコはカップに入ったココアを美味しそうに飲むだけだった。
「チャコ。分かってるよね?」
苛立ちを隠さずにメイルが言うと、チャコは慌ててカップを置いて言った。
「分かってるにゃ! あともうちょっとしたら勉強するにゃ!」
「そう言って、十五分過ぎたからね」
「大変にゃ! ココアが無くなりそうにゃ!」
カップに入ったココアをチャコは一気に飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
「勉強に甘い物は必要だにゃ!」
そして、店内のカウンターへ行こうとした。
「待て! もう三杯目でしょ!」
メイルはチャコの虎柄の尻尾を咄嗟に掴んだ。
チャコは背筋を反り返して小さく悲鳴を上げた。
「尻尾を掴むなんて卑怯だにゃ!」
「約束を守らないチャコだって卑怯でしょ!」
「だってにゃ……」
勉強しようとしないチャコを、メイルは黙って強く睨んだ。尻尾を掴んだことは申し訳ないと思っている。だが、ここでなら勉強できると言ったのはチャコだ。
「約束は、守ろうね」
にっこりと微笑んでから、教科書のページを指で二回叩いた。
「……、怒るよ」
メイルの様子にチャコは観念した様子を見せ、「わかったにゃ……」と小さく呟いた。
そして低いうなり声をあげて渋々とチャコは席に着いた。
つまらなそうに教科書を一ページ捲ると、目をうつろにして口を動かし始めた。
「……、ぅ、あ……で…にゃ……う」
「声が小さすぎて全く聞こえないんだけど」
その一言に、チャコは恨めしそうにメイルを見つめてきた。先ほどまで爛々と輝いていた碧色の瞳はすっかり曇ってしまっていた。
「あと何ページ、勉強すればいいのにゃ……」
メイルのこめかみがひくついた。
けれども、ここは家庭教師として、自分の未来のためにも我慢するところだと、心を落ち着かせようとした。
「どこまでならできそう?」
「勉強できるにゃら、こんにゃの読まないにゃ」
メイルは手の震えを抑えようとした。
メイルは、チャコが大の勉強嫌いだということを子どもの頃から知っていた。
だから、二週間前に家庭教師をチャコのお母さんから頼まれたとき、断ろうかと思った。
が、無償で魔王城の一部屋を貸してくれるチャコの両親の頼みを無下に断ることもできず、とりあえず話だけでも聞いてみた。
そして、チャコの現状を聞いて、メイルは絶句した。
一年前に魔法学校へ入学してからというもの、授業をほとんどサボるため、成績はスポーツを除いてほぼ最下位。チャコの両親は魔国のお姫さまとしてこの状況を看過するのはマズイと感じ、今まで家庭教師をチャコに何人も付けさせたが誰も勉強させることできなかった。その数、一年間で二十三人。
二十四人目の家庭教師となったメイルは、もともとどこかの店でアルバイトしながら学費を稼ぐつもりだったので、もしアルバイト料を貰えるならとチャコの両親に言ってみた。
提示されたアルバイト料は破格だった。月収で千五百リルラ。一回三時間、週三で働こうと思っていたパン屋のおよそ二倍。条件面で断る理由がない。
さらに、魔王城にある食堂も無償で使って良いとのこと。
悩むメイルに、チャコのお母さんは辛かったらいつでも辞めていいと言った。その表情には、もしメイルでダメだったら諦めるしかないという辛さが滲み出ていた。
これで断ったら、チャコのお母さんが可哀想すぎるわね……。
メイルはまずは一ヶ月ということで引き受けたのだった。
翌日、メイルはチャコに自ら教科書を開かせることが、死んだ牡蠣を素手で開くほど難しいことだと思い知った。。
そして、家庭教師を始めて十三日目となった昨夜、ようやく教科書を自分から開かせることに成功したのだった。
得体の知れない満足感を味わうと同時に、数年分の体力を使い果たしたメイルは、自室でぐっすりと眠り、そして今朝になって新学期まであと一ヶ月を切ったことに気付いたのだった。