76話:事実は小説よりも奇なり……当たり前ですよね?
小学校の時、宿題で出される日記が大嫌いでした。
日記を書いて提出、先生がそれを読んで感想っぽいもの書いて返却。
日記を書くというか、文章を書くことそのものは嫌いじゃなかったんですよ。
先生に読まれる。
これが嫌。(笑)
最初はなんか嫌だな、でも嫌な理由がよくわからない……という感じだったんですが、おなじみの『特に何もありませんでした』的な日記に対し、『昨日は〇〇さんと遊んだのではなかったの?』なんていう先生の返事を読んだ瞬間、謎はすべて解けました。
ああ、この日記って自分たちを監視するための口実だ、と。
母親と次兄の影響が大きいとは思いますが……小学1年生の時点でこう考えてしまう私は、ちょっとばかり精神的にすれていたのかもしれません。
正直、『子供は無邪気だねえ』的な意見に対し、私は全力で否定したいのですが……高校にあがってから以降の知り合った人とのやり取りによって、むしろ私のほうが少数派なのかも、ぐらいの認識ですね。
大人になると子供時代を美化したがるとか、私の故郷が根本的にゆがんでいるとか、そのあたりの理由付けは自分の中で済ませてはいますが。
話を戻しますが、こう(考えてしまう)なると日記を書くのはものすごく難度が上がってしまいます。
前提として、人に読まれる。
つまり、人に読まれても困らないことを書かねばいけない。
自分がごまかせるのは、自分の日記のみ。
ほかの人間が出てくる内容よりも、自分ひとりで何かをしたという内容が好ましい。
このあたりの論理展開も歪んでるなあと、今にして苦笑してしまいますが……私にとって日記を書くというのは『上手に嘘をつく』技術を磨くことでした。
ただ、早々と『他人に読まれる』というか、他者の視点を意識して何かを考えるということを学べたことは良かったなとは思います。
さて、『事実は小説よりも奇なり』。
小説は、基本的に読み手を意識して書かれた物語(文章)です。
極めて限定的な層を意識するか、幅広い層を意識するかは書き手の自由ですが、想定した読み手に『楽しんでもらえる』、『納得してもらえる』、『ある種の共感を覚えてもらえる』ことを計算して書かなければ、表現としては片手落ちになってしまいます。
もちろん、自分の主義、嗜好を有り余るパトスのままに書き散らして、『共感してくれる人はいるかな』という、仲間探しの一環としての小説もアリだとは思います。
もちろんその場合にも、共通言語を用いることで『無意識に読み手のことを考えている』と言えなくもありません。
多少黒歴史じみていますが、『自分だけが理解できる、オリジナル暗号をつかった日記』なんかは、極めて排除的な例ですね。(笑)
早い話、恋愛小説大賞に、熱血バトル小説を応募しても論外というか……書きたい内容が決まっているなら応募する先を選択しなきゃいけないし、応募する先(雑誌)が決まっているなら、そこに合わせた内容を考えなければいけません。
かなり乱暴な言い方になりますが、読み手のことを意識して書く時点で、作者は多かれ少なかれ妥協を求められます。
『事実は小説よりも奇なり』という言葉の中の『小説』は、空想や絵空事という意味合いで使われているのでしょうけど、多くの人に共感されるのは読み手を意識した小説のほうです。
事実はただの事実でしかありませんから。
小説ならば語られるであろう、共感を呼ぶエピソードや涙するような感情描写も存在しませんので、いきなり突き出された事実に対し、人は困惑するしかありません。
『二度とこんなことが起こらないように原因究明を』などと声高に叫ばれる事件において、調べたところで意味がないんじゃないかと思ってしまうモノがあったりします。
特に、人の心の闇については……そこに至った過程や動機に納得できるモノを探し求めるのは、事実と小説を混同しているんじゃないかと。
私個人としては、必ず答えが与えられるという考えは傲慢に過ぎると思う。
事実は小説よりも奇なり、なのだ。
他人を納得させるための行為と、自分だけを納得させるための行為を混同してはなるまい。
自分だけを納得させるための行為に対し、他人がそれを理解しようというのは……どこか愚かしい感じがする。
自分を納得させるための行為。
他人を納得させるための行為。
この二つは、人の中に必ずあるものだと思う。
前者に偏れば集団から排斥され、後者に偏れば己を見失う。
要はバランスとか距離感の問題だろう。
こうまとめてしまうと、生きるということは文章を書くという行為と相似関係にあるように思える。
自分が自分でありたいと願う心と、他人に認められたいと願う心。
他人に認められるということは、他人の価値観に己を委ねるということも意味する。
この困難さ故に、人は古来からどう生きるかを考え続けてきたのだろう。
生きることは最大の表現行為であるとは、誰が語った言葉であったか。
この年齢に至って、なるほどとうなずけてしまう。
この年齢になると、人生いかに生きるかではなく、どのように死ぬかのほうが重要だよなあと思ってしまいます。
目標に向かって歩いていくだけですからね。




