50話:孤独を超えた孤絶
2000年……ぐらいだったかな?
ネットサーフィンなる言葉を知って、なるほどなあ……と納得するような気分になった私が、放浪の末にたどり着いた個人のホームページにあった文章。
それは、素人目に見てもぎこちないというか、少なくともプロの文章ではなかった。
おそらくは、私と同世代か、少し下ぐらいの人間が書いたものではないかと思ったが、定かではない。
ただ、読んでいて怖くなるというか……ドロドロとした情念が込められているような気がして、圧倒された記憶がある。
90年代にノーベル賞を受賞した某経済学者の、家族をコスト面で定義する理論を理解はしても納得はしたくない私だったが、その文章で述べられている要旨というか概要は、納得はしても理解できないという感じだった。
日本語がおかしいのは承知だが、正直ちょっと言葉では表現しにくい。
それはまず、『死ぬコスト』から語られていた。
しかしながら、特に難しい計算式やら理論が述べられていたわけではない。
いわゆる無縁仏というか、引き取り手のない死者を埋葬するのにどれだけ費用がかかるか……という観点からのコストだ。
ごくごく単純に、火葬場で掛かる費用。
今の世の中で散骨がどの程度まで認められているのかわからないが、死体はちゃんと処理しなければいけないことになっている。
まあ、防疫のからみでこれは必要なことだ。
天涯孤独の人間が死ぬ。
本人の希望がどうであれ、彼が属している社会は彼の死体を処分しなければいけない。
死ぬことは、タダではないのだ。
死ねばコストが発生する。
それは、天涯孤独の人間だろうが、親類や、面倒を見てくれる知人友人のいる人間でも変わらない。
その、死によって生じたコストを誰が負担するかだけの違いでしかない。
これらを踏まえたうえで、次の一文である。
持たざる者は、死ぬことすら許されない。
難しい話ではない。
納得はできる。
理解もできる……いや本当に理解できているのかどうか不安になる。
否応なしに、書き手に思考が飛んでしまう。
生きているだけで人は社会的なつながりを持つ。
ひとりじゃないとか、支え合って生きていくとか、そういったどこか胡散臭さを感じさせる言葉ではなく、人は生まれることによってコストを発生させ、生きていくことによってコストがかかり、死ぬことによるコストをもって……。
人と人、もしくは社会とのつながりをとことんまで無機質に、金銭的なつながりに換算する視点と言葉にすれば、経済学者のそれと変わらないが、この書き手は、この文章は違うと私は思った。
思想、物質などは、人によって価値観が違う。
無宗教ではないが、宗教色が限りなく薄い日本において『金』は便利なツールだ。
金持ちと貧乏人では、1万円のありがたみが違う。
でもそれは多く感じるか少なく感じるかの問題であって、金持ちだろうが貧乏人だろうが、1万円は、1万円の価値しかない。
その1万円の価値を、何に変換するかは個人の自由であり、その先の問題だ。
つまり、この国において金は人にとって絶対的価値観の幻想を与えうる。
金を通して、個人の価値観をやりとりできるのだから。
金は物差しである。
経済学者の視点は、ここから始まる。
ただし、ここから先は個人の価値観で変換してくれ……というものだ。
その『ここから先』が、この文章からはほとんど感じられないのだ。
社会的帰属意識はある。
社会的つながりという認識もある。
しかし、死ぬためには己の死のコストを贖うだけの貯蓄が必要であるという理論のあり方は……怖い。
滅私奉公と似て非なるものというか、それとは別の、おぞましい何か。
社会的なつながりを意識していながらも、そこには凄まじいまでの隔絶がある。
孤独は、周囲の存在があってこその孤独だ。
認識はあっても、存在を意識していない。
今になって思うが、その文章から、私は書き手の絶無しか感じとれなかったがために、困惑したのだろう。
絶望は生きていくための道具だと私は思っているが、この書き手の、絶望と言っていいのかどうか……それは、生きていくためでも、死ぬためでもなく、ただ消えるためだけの道具のような気がする。
特にオチはありません。




