35話:車の運転が怖い。
私の免許証は、身分証明証です。(ペーパーでゴールドな笑顔)
小学校では、年に一度交通安全教室なるものが開かれ、警察からやってきた人が……あれ?なんだったっけ?機械の上に、絵や文字の書かれた透明なセルファイルを乗せて光で投射する奴。オーバー……?
まあ、体育館に生徒集めて、色々とそういうものを使って交通安全指導するわけです。
多分、どの小学校でも同じことをやっていたんでしょうが、校区内に横断歩道がひとつしかないこの地域でやる必要が本当にあるのかどうか。(笑)
飛び出すな、車は急に、止まれない。
有名すぎる標語ですが、その本当の意味を私たちはこの交通安全教室で知る事になる。
子供が飛び出してくる。
危ない、と運転手がブレーキを踏む。
ブレーキが効いて、車が止まる。
先の消える魔球のお話でも書いたが、情報を与えられてそれを判断し、行動に至るまでにはタイムラグが発生する。
これは、行動の自由が大きければ大きいほど、判断及び実行までの時間を要する。
つまり、子供が飛び出してきた……から、実際にブレーキを踏むまでの時間、車はそのまま進む。
そしてブレーキが効き始めてから、実際に止まるまでにも車は減速しつつ進む。
時速40キロにおいて、考えうる最速の対処でブレーキを踏み、車が止まるまでの距離が約20メートルぐらいだったろうか。
時速60キロだと、44メートル?(うろ覚え)
ほかの人間がどう思ったかは知らないが、私はこれを聞かされて恐怖で震えた。
今は保険の査定において色々と変化がもたらされているようだが、当時は『人身事故を起こした場合、運転手が100%悪い』という認識が当たり前というか、子供でありながらも、新聞、テレビ、親の会話などで見聞きしていた。
子供だった私は、こう考えた。
運転手の責任でどうこうできるのは、ブレーキを踏むまでの時間のみ。(制限時速内で走っていると前提)
極端な話、間近に迫った車に対し、物陰からぱっと飛び出して車にひかれる。
運転手の責任がどうこうの問題ではないにも関わらず、運転手が100%悪いと言われる。
だって、車は急に止まれないのだ。
警察の人が言うように、車が止まるまでにこれだけの距離を進むのは、どうしようもないことなのだから。
そのどうしようもないことに対して、責任を取らされるのだ。
当時の私には、これは理不尽としか思えなかった。
勘違いして欲しくないが、実際に事故に遭われた関係者に対して何も含むところはない。
少なくとも、ブレーキを踏むまでに最善の努力をするのは義務だろう。
飲酒やら薬物やら、その義務を放棄するかのごとく運転者に対して責任がないとは私も言わないし、それと同時に、事故に遭わない最低限の努力もまたなされるべきだ、と。
そして私は考えた。
子供の自分でも気づくのだから、当然大人はその理不尽を承知で、ある種の覚悟を持って車を運転しているのだろうと。
同時に、自分はそんな理不尽を認めたくなかった。
だから私は、車を運転する事など絶対やるものかと決意した。
中学生になり、通学に自転車(自転車も道路交通法では軽車両に分類されるが、そのツッコミはスルーさせていただく)を利用するようになった。
小学校の校区内にはなかった、交差点、信号機の存在……私は否応なしに、交通戦争の真っ只中にその身を投じる羽目になったのだ。(中学校の校区も、超田舎です。)
多少物の道理を解するようになり、自転車を運転することによって、私はますます車の運転に恐怖を覚えるようになった。
周囲への気配りというか、速度が上がれば自然に視野は狭まる。
ちょっとしたことも見逃さない集中力が、どれほど継続できるというのか。
正直、車の運転は自殺行為というか、ロシアンルーレットにも似た、命懸けのギャンブルとしか私には思えなかった。
両親にそのことを訴えたところ、『事故は、不運だったと諦めるしかない』との返事。
運が悪いって……ある意味、両親のその覚悟の決め方に感嘆したが、運が悪かったで人生を棒に振るなんてまっぴらである。
たしかに、田舎の生活で車は必須だ。
道の両側が見渡す限り田んぼだと、不意の事故の可能性も限りなく低いだろう。
しかし、事故を起こした結果、人殺しと後ろ指を刺され、多額の賠償金を請求され……どうしてもリスクとリターンが釣り合わないとしか私には思えず。
さて、一番上の兄は、当時の田舎ではふつーの、ヤンキーというかなんというか。
ちゃんと働いて、そのお金で車を買い、工具を揃えてせっせと整備し、ところにより違法な改造をし、夜な夜な交通法規をぶっちぎって愛車を走り回らせていた。
私の感覚から言うと、人外である。
夜間、時速三桁で車を走り回らせ、広い交差点で練習がてらにドリフトをかまして近隣住民に騒音を撒き散らす車。
私の感覚から言うと、やはり人外である。
車のライトは万能ではない……兄に言わせると、『夜の方が安全だ。ライトで照らすのではなく、ライトが光っていることによってその存在が確認できるから』とのことだが、それでも怖い。
自分勝手な人間だとは思うが、兄が誰かを巻き込むことよりも、兄が事故で、怪我なり死亡するが怖かったのだ……まあ人間、自分の身内のことしか考えられない生き物でもあるし。
真ん中の兄とはほとんど趣味のジャンルが重ならなかった上の兄は、カメラやら車やら喧嘩のやり方やら小型の爆弾作りやら鉄道の信号機が鳴りっぱなしになるいたずら仕組み(知識として知ってるだけで、当然実行はしてない)やら、主にあまり社会的によろしくない感じの(笑)いろいろなことを教えてくれた。
あ、爆弾といっても、爆竹やら花火の火薬を取り出してカプセルに詰め、起爆コードをつないで爆発させる程度のおもちゃに毛が生えた程度のやつなので、何の問題もない。
ないったらない。
と、とにかく、車全般についてやたら詳しかったので、色々と参考にはなった。
車の運転免許をとるにあたって、普通は自動車学校を卒業して県警のペーパーテストを受けるのだが、自動車学校を無視して、県警で実技試験を受けるというやり方があるのだと。
もちろん、それは金銭的余裕がないか、自分の運転技術に自信があるかのパターンにわかれるが、その合格率はせいぜい5%程度なのだと。
もちろん、自動車学校関係は警察関係者の天下り先だから、その利権を崩壊させるような真似はできない程度の社会的知識は中学生なら普通にある。
兄は続けて言った。
今、免許持って車を乗り回している人間の9割は、県警の実技テストで落ちる。
なん……だと?
私は恐怖した。
当時は分からなかったが、あの頃の日本産業の中心は自動車メーカーで、メーカーは車を売るのが仕事で、そのためには運転手が必要で……本来道路交通法的に必要な技量を満たすよりも、そっちのほうが大事だと判断したオトナの事情がこのような警察を含めたシステム構築を(以下略)。
弟よ、車を運転して事故を起こさないっていうのは、車に乗る資格でも何でもない。車に乗る資格というのはな、他人のアクシデントに巻き込まれずに済むだけの技術を得て、初めて車に乗る資格が与えられるんだ。
無茶言うな、兄。
ただまあ、この兄はお金を払ってドライビング講習を受けたり、違法ではあるものの、車の整備はいつもしっかりしていたし、毎晩乗り回して技術の向上にも努めていたし……
ごめん、兄ちゃん……言葉を飾ってもちょっとこれ以上は擁護できないよ。
いろいろあって、私は車の運転免許を保持している。
ただ、自分は運転には向いてないという自覚はあり、車を乗り回しはしない。
自動車学校の道路教習の回数が、実際に車で道路を走った回数(2回)よりも多い。
車の運転技術について自分が上位10%以内に入る自信はないし、反射神経と視力、そして判断力が優れているとは思えないし、そもそも運転技術の経験を積むことが不可能だ。
そんな私にとって、車を運転する人間は勇者である。
ただし、勇者の勇が、匹夫のそれである人間が少なくないようにも思えて仕方がない。
私は臆病で愚者かもしれないが、車を運転する意味について私程度に考えた人間は、決して多くはないだろう……。
最後にもう一度繰り返す。
私は車を運転するのが怖くて仕方ない。




