20話:私はオタク
『オタク』って言葉、今はどういう意味合いでどういう使われ方をしているんでしょう?
なんというか、時の流れを速く感じてしまうのは、年齢のせいか、それとも時代のせいか。
私の世代は、『オタク』という言葉が生まれて、世間に認知されていった時期にかぶるというか……まあ、基本的に侮蔑的な意味合いでしか使われなかったですね。
たしか、最初の定義的なものは『ある特定の事柄に執着して、周囲と上手くコミュニケーションが取れない状態。もしくは人物』……そんな感じだったと記憶してます。
こう、いかにも頭良さそうな人間がひねくりまわした感じが出て苦笑ものですね。
この定義に即して言えば、私は高校卒業までは『野球オタク』でありましたし、大学生活においては『小説・漫画オタク』であり、『スポーツオタク』であり……かなり尖った感じの知識を有し、友人関係を保っておりました。
というか、日本人の職人気質はオタク気質に通じるんじゃないかと思うわけですが……ほら、変態国家ニッポンですから。(笑)
農業ひとつとっても、これでもかとばかりに手をかけて、至高の一品を目指す姿勢が……。
海外の、大規模農業にみられる『最低水準を満たす作物を、いかに楽に生産するか』とは正反対に近い。
さすがに、今の日本でも農業の大規模化がどうのこうのの話になってますが、現状を見る限りでは中規模、小規模、大規模の農家において、いわゆる省コストのための規模の経済性はあまり働いていないとか。
そりゃ、個々において例外はあるんでしょうけどね……これはもう、国民性と割り切るしか。
努力は尊く、必ず報われるという価値観は、国による教育(洗脳)の賜物ですしね。
学生さんには、学校のテストを例に挙げるとわかりやすいでしょうか。
80点を100点にするのと、0点を50点にするのは、後者のほうが容易な上に、総合得点の上でも有利なのですが……なぜか我々日本人は、高い頂きを見上げてしまいがちなのです。
好きなことに熱中。
ひたすらに高みを目指す。
とがった俺、格好良い。
いや一番最後はちょっと違うか……違わないかも……ま、ちょっと覚悟はしておけ。(黒歴史の)
まあ、経験上オールラウンダーはいろんな場所において低く見られがちな気がします、この国。
さて、何の話を書こうとしてたんだったか……。(笑)
えっと、私はいわゆる初期型オタクなのです。
面白いもの、楽しいもののためにあらゆる犠牲を惜しまない……とまでは言いすぎかもしれませんが、熱中症でバタバタ人が倒れるような状況で、何時間もの苦痛を耐え抜き、モノを手に入れたりしてたわけで。
迂遠な言い方になって申し訳ない。
私は小説を読むのが大好きでして、このなろう小説で読み物を探す時、『古い順で総当り』方式を取ってます。
初期型オタクは、こうした苦労を厭いません。
あらすじも、タイトルもほとんど気にしません。
第1話を読めば、作者の力量はほとんど知れます。
いろんな意味で合わないと思えば次の作品に、何かありそうだと思えばそのまま読む。
文章が不味くても、発想及び着眼点が楽しければ読む。
もちろん、途中から急激に面白くなる作品が存在することは否定しませんが……そこは涙を飲んで我慢。
だって私はオタクだから。
楽しいもの、面白いものを他人任せにすることはできません。
それが私の知る、オタクという人種です。
面白ければ、必ず誰かが見てくれる……この考えは、多分ここから来てるような気がします。
でもこれは、昔の価値観なんでしょうね。
大量の情報が流れていく現代社会において、いかに素早く情報をキャッチするかという技術は死活問題だと思います。
これは、どっちが正しいとかじゃなくて、どういう状況で人生を送ってきたかに依存する性質みたいなものではないかと。
この手の恣意的な内容の話はあんまり書きたくはないのですが、エッセイジャンルを開いたら『テンプレ』とか『不正』とかずらららっと並んでて、おじさんちょっと苦笑しちゃったよ……ってとこで。
まあぶっちゃけると、『自分が読みたいものがきちんと用意されている』なんて考える時点で贅沢じゃないかなあと。
個人的な意見ですが、この『なろうフィールド』において、『お客様』は存在しないように思うのです。
なのに、お客様の立場というか、目線での意見が散見できるなあ……と。
所詮人は、自分の都合で動く生き物です。
他人が、自分に都合良く動くのは大半が幸運という名の偶然によるものです。
まず諦める。
そこから考える。
夢も希望もない言い草ですが、夢と希望はそこにしかないような気がします。
と、いうわけで無事に冬コミが終了しましたよ。(台無し感)




