197話:夢なんて見ない。
初夢の季節ですね。
……初夢は、季語です。
つまり、初夢は季節といっても過言ではないと思われます。
と、言葉遊びはこのぐらいにしておいて。
毎年毎年ネタになるので知らない人は今更いないとは思いますが、まあ1月2日の朝に見た夢をそれと定義するような。(2~3日の夜という説もあります)
年が明けて初めて見る夢……だと、どう考えても1月1日の朝、目が覚める直前に見た夢だろなどと突っ込まれますからね。
年が明けて初めての睡眠時に見た夢……だと、それこそ大晦日の夜に夜ふかししたり、初詣のからみで日付が替わってからの睡眠だから、などと。
興味のない人間には、心底どうでも良い議論がなされたり、定義が作られたりする……そういう感じ。
まあ、人は一度の睡眠時に何回も夢を見ているらしいですけどね……それを覚えていないだけで。
と、言うわけで夢の話です。
これもまた定義が少し微妙なのですが、『自分が夢を見ている』という意識がある夢を、明晰夢というらしいです。
その定義をもとに言うならば、私の見る夢はほぼ明晰夢です。
例外パターンは2つ。
1つは、目が覚めて時計を見た瞬間に『遅刻だ!』と跳ね起きる夢。
これは、ほぼ同時に夢から覚めるので、なかなか心臓に悪いです。
心拍数とか、マジで勘弁して欲しい……目覚めた瞬間に心臓発作とかの嫌な未来が見えてしまいます。
もう1つは、大学の願書を出し忘れるという夢。
これも、『うわあああ!』ってなったところで目が覚めるので、とても心臓に悪いです。
まあ、どちらのパターンも、ものすごく短い。
おそらく、なにかの物音で意識が覚醒する瞬間に見ている夢なのかなあ……と。
そういうわけで、私は『良い夢を見た』とか『悪夢』などとは無縁です。
自分の意志で夢の内容を変えられるみたいなことはありませんが、夢の中の私はただの傍観者というか……見たり聴いたり感じたりはできますけど、『私』というキャラクターを、テレビ画面を通して見ている感じです。
割とショッキングな例を挙げれば、いきなりどこかのエレベーターフロアに立っていて、エレベーターの扉が開いて中に入る……と、頭にポツっと雨っぽいものを感じて上を見た瞬間、全身血まみれ。
まあ、殺された人がエレベーターの天井に吊るされていて……と。
血を浴びた瞬間に、『血液の感触がおかしいな、ああ、エレベーターの広さや天井の設定も変だ、夢か』と、夢であることに気づく……厳密に言えば、途中で夢であることに気づくから明晰夢ではないかもしれません。
日常生活モノの夢だと、『こんなもの俺の家にはない、夢だな』とか、『家具の位置がおかしい、夢だ』などと、すぐに矛盾に気づいてこれが夢だと認識してしまいます。
なんというか、基本的に私の見る夢は視界が狭い。
自分が何らかの行動を起こして、新たな視覚情報が入ってくると同時に何らかの矛盾というか、曖昧な部分を発見して、夢であることに気づく感じです。
寝る前に読んだ小説の影響を受け、そういう内容の夢も見ることがあるんですが……やはり、何らかの矛盾にすぐに気づいて、夢だと分かってしまいます。
そのあとは、お芝居みたいみたいな感じですね。
なので、『おいおい、そこで突っ込めよ自分』とか、『設定が甘いぞ、自分』とか、意地の悪い心持ちで夢を楽しんでいます。
正確にいえば、観客者視点を楽しめるようになりました。
それはそれとして、…知人、友人などから『この前、こんな夢を見てね』的な話を聞くたびに羨ましいなあと思うのです。
夢を見ながら、それを夢と認識していないのならば、それはある意味仮想体験じゃないですか。
もちろん、悪夢なんかはあれなんでしょうけど……いろんな仮想体験ができるって、楽しそうだよなあと思うのです。
宝くじがあたった夢とかも見たことあるんです。
でも『この宝くじ買ってないから夢だな』とか、『宝くじの番号(桁数とか、名前)がおかしい、夢か』とか、少しぐらいは喜ばせてくれてもいいんじゃないかとは思うんですが、現実(夢の中)は『はいはい、これからどういう展開になるの?』という、まさに他人事な意識でしかないのです。
これって、ものすごく人生を損しているような気がしてなりません。
現実に対して夢を見るような年齢でもないので、せめて寝ている間ぐらいは夢を見たいなあ。




