177話:春は暮れなずみ、秋は釣瓶落とし。
暮れなずむの『なずむ』は、『泥む』と、漢字にするとものすごく意味が分かりやすくなりますね。
泥ですよ泥。
もう、なかなか進まないって感じじゃないですか。
まあ、日が暮れそうだけどなかなか暮れない、太陽が沈んで暗くなりそうだけどなかなか暗くならない。
春という季節の夕暮れどきを示す言葉というか、そんな感じで。
さて、季節は秋。
これは、秋の日は釣瓶落としと言われるように、ストンと太陽が沈んで、あっという間に真っ暗になることを示してます。
うん、示しているんですけど。
子供の頃といっても、中学生ぐらいの頃だったか、これが不思議というか、納得できませんでした。
日本の一年を彩る四季。
春夏秋冬、春夏秋冬と、繰り返されていく季節。
梅雨が、暖かい空気と冷たい空気の勢力争いから生まれるように、秋もまた秋雨前線とか、秋の長雨とかいう風に、暖かい空気と冷たい空気の勢力争いが行われるわけで。
夏と冬を、いわば対極ととらえれば、春と秋は季節は違えども相似的な部分が出てくるのが必然だろうと。
なのに、春は暮れ泥み、秋は釣瓶落としなのか?
太陽の高度、日中と夜間の時間バランス。
それらは基本的に地球の地軸の傾きから生まれたもので、それから考えれば、夏至、冬至を二極として、等時期ならば、春だろうが、秋だろうが、同じように日は暮れるはずではないのかと。
まあ、それで考えると11月と1月が同じになるわけで……ああ、春と秋が同じという前提そのものが間違ってるなってことになっちゃうのですが。(笑)
たとえば、3月に対応するのは9月。
まあ、暦の上では9月は秋ですけど……さすがに釣瓶落としとは言わないなあと。
などと、いったんテーブルをひっくり返した上で。
春は何故暮れ泥み、秋は釣瓶落としなのか。
春分の日の頃、暮れ泥むという言葉は普通に使われる。
でも、秋分の日の頃に、暮れ泥むという言葉は使われない。
イメージの問題だろうか?
文学的表現を刷り込まれたせいで、私たちは自然にそう感じるようになってしまっているのか?
では、『そういう表現がなぜ生まれたのだろう?』
そういう表現が生まれ、受け入れられたからには、何かしらそういう理由というか原因がある。
そもそも、私にしたって、春分の日の夕暮れと秋分の日の夕暮れが同じであるとは思わない。
さて、このことに対して何らかの答えが出ているのか、それともこんなことにこだわる人間がいないのかはわかりませんが、私なりに考えた答えがあります。
春霞という言葉があります。
対して、空が高くなっていく秋。
空気中の水分量やら、小さな微粒子の存在によって、春と秋で決定的に違うのは空気の透明度。
つまり、春の空気は、光の乱反射を起こしやすいのではないか。
太陽が沈む、が、乱反射によってぼんやりと明るい状態が続く。
乱反射が起こらない、もしくは少ないと、その恩恵の少なさがそのまま暗闇を招く。
最近はロウソクを使うことなど滅多にありませんが、ロウソクの光が部屋を照らすとき、もしくはなにかの作業をするために手元を照らすとき、案外一定の明るさではないことに気づかされます。
さてさて、行灯や提灯。
興味があれば、ロウソクの周囲を紙で囲ってみましょう。
光源を紙でおおうと、周囲の明るさが平均化されます。
これは、乱反射によるものです。
まあ、電球についてる傘の存在とかも、結局は明るさの均一化を狙ったものです。
乱反射ってのも、馬鹿にしたものではありません。
と、いうわけで秋の釣瓶落としは普通のことで、暮れ泥む春こそがイレギュラー。
その正体は、空気中の微粒子の増加による乱反射のせい。
私の中ではそういう結論になってます。
どうなんでしょうね?(笑)
そこ、光の波長から考えるとその理屈はおかしいとか言わない。




