12話:居酒屋にて
念のため、予約時間をずらしてみる。
私は魚が好きです。
こういう書き方をすると、読み手としては解釈が広がります。
『魚を飼うのが好き』
『魚を釣るのが好き』
『魚を食べるのが好き』
文字数に制限がなく、むしろ文字数を稼げたいとき、このあとに説明を付け加えることで原稿用紙を埋めるテクニックレベル1の取得になります。(笑)
まあ実際は、スペースも文字数も限られていて、レイアウトも指定されていたりする仕事が当たり前ですが。
容赦なく、『私は魚が好物です』などと書きますかね。
ここでも『私の好物は魚です』などと書くと、『魚が一番好きなのね』などと解釈されることが多いため(前者だと、割合その解釈は少なくなる)、書き手としては注意しなければいけません。
『私は』の部分があるために『魚が』と受けていますが、それを省いて、『魚が好物です』と『魚は好物です』だと、また読み手の受け取り方が変わってくる可能性がありますね。
前者の『が』は、強調表現と受け取られる可能性が高く、後者に比べたら『魚が一番大好き』というニュアンスになってしまいます。
実際問題として、そもそも『私は魚が好物です』という一文は修正を受ける可能性が高いです。
文章のリズムが悪いというか、よほどこだわりがなければ、同じ内容を別の文で書き換えろと指示されると思います。
文字数の縛りが入ると、言葉や単語一つ一つに神経を使わざるを得ません。
人は不自由の中で進歩というか、能力を発展させることが多いので、ある程度自分に縛りをかけることは日常生活において大事なことではないかと私は考えます。
おっと、気が付くと原稿用紙1枚分浪費していたり。(笑)
読み手がどう受け取るかが怖いところですが、書き手としては1行進めるのに1週間のたうち回るという苦痛を進んで味わいたくはないなあ……あくまでも私レベルのお話ですが。
大学時代、アパートで魚を焼くことができなかった(ムニエルならばなんとか…)たため、魚を食べたくなると、定食屋に行ったりするしかありませんでした。
まあ、どの魚を食べたいか……によって、行き先が居酒屋になったりするわけでして。
酒も注文せず、焼き鳥にホッケにサラダ。
学生にとっては贅沢(金銭的に)な食事ですのでそうそう機会があったわけではありません。
魚が嫌い、苦手な人の中でも、割合ホッケは人気らしいですね……食べやすいからか?
ちなみに、私は魚を骨までくだいて中の髄まで食べる派なので、実家の飼い猫に嫌われていたかも。
え、ひとり居酒屋ですが?
酒を飲むならまだしも、飯を食うためだけに居酒屋に付き合ってくれる友人はさすがに……。
さて、あれは、大学5年の秋頃だったか。
就職も決まって、早々と卒論も完成し、必要単位はすべて取得、体育会は引退……大学生の名を借りたニート生活真っ只中。
あの楽しさを知っている私は、ニートの方を責める気にはなれません。
いや、あれはマジで楽しい。
目が覚めた時間に起き、軽く散歩してからシャワーを浴びて軽食。
大学に足を運んだり、ほかの大学の授業に潜り込んだり、図書館にこもったり、本屋を巡ったり、ゲーセン、家でゲーム、漫画……。
あれ、なんだか目から涙が……。
話に脈絡がなさすぎますが、タイトルがタイトルですし。
まあそんな日々の中で、たまの楽しみというか、ひとり居酒屋をやらかしていたのですが、酔った女性に話しかけられました。
あ、私の外見は贔屓目に見て、中の下ってところです。
ついでに私は素面です。
邪魔すんなよとは思ったのですが、何やら嫌なことがあった御様子。
ストレスフリーな生活を送っていたこともあり、私は少々優しい気持ちになって女性の話を聞いてあげることにしました。
まあ、相手の顔を見ながら『そうなんですか』『大変でしたね』『すごいですね』の3種の神器を用いていただけですが……心に余裕のない今なら絶対できませんね。
不満をぶちまけ、鬱憤と酔いがそれなりに解消されたのでしょう。
彼女は多少私から距離を置き。
「ペーパーホルダーが二つあるトイレってあるじゃない。ほらデパートとか」
「ホルダー……ああ、トイレットペーパーの」
「そうそう」
彼女は頷き。
「残ってる紙が多い方と少ない方、あなたならどっち使う?」
「え?そりゃ少ない方でしょ?」
「……どうして?」
「どうしてもなにも、多い方を使ったら後の人が困る可能性があるじゃないですか」
「あなたわかってるわね!」
私の答えを聞いて、彼女が嬉しそうに背中をバンバン叩く……痛くはないけど。
この時は、私と彼女はお互いに了解した上での会話だったのでそれきりだったのですが、後日この事を友人に話すと説明を求められました。
「え?」
「いや、なんで少ないほうを使うのが当たり前なの?なんで、多いほうを使うと、後の人が困る可能性があるの?」
「紙の総量が減るだろ?」
「どっち使っても減るやん」
「いや、そうじゃなくて…」
などというやり取りを経て、あの時の私と彼女の会話はそれなりの知識をもとにした上でのやりとりだったんだなあ、と。
どうやら『自分が使い切ってしまうのは嫌だ』という心理的なものが作用するらしく、日本人の大半はこういったケースにおいて、残りが多い方を使ってしまうそうです。
トイレットペーパーの交換というか補充に関して、使用者本人がそれをするデパートってのはむしろ少数派だと思われます。大抵は時間を決めて、清掃係りの人が見回るというか、清掃の際に減っていれば補充するというパターンがほとんどかと。
交換する際、ここまで減っていれば交換……みたいな基準があることを推測するのは難しくありませんし、実際にそんな感じらしいです。
トイレットペーパーの直径が半分になれば、総量は半分ではなくて(芯の部分の直径によりますが)、3割程度になってしまいます。
つまり、一つを使い始めたらそれを最後まで使い切るという了解の元でみんなが行動すると、総量(ペーパー二個分)の半分より多い状態で補充ができるわけですが、二つを均等に使う判断が繰り返されると、最悪のケースでは、もう少しで交換する基準に達するレベルが二つ並んでいるという状態になります。
この時の紙の総量は……推して知るべしというか、直径の半分では交換しないですよね、きっと。
トイレに駆け込んでほっと一息ついたところで紙がない、という悲劇が起こりやすくなるのが理解いただけたでしょうか。
と、このあと妙に気になって友人やら後輩やらに聞いてみたところ、『少ない方はなんとなく使いたくない』という答えがほとんどでした。
特に理由はなく、感覚的なものらしいんですけどね。
ちなみに、私の兄に聞いてみたところ。
「は?少ない方に決まってる。馬鹿かお前」
などと、言われました。
……あまり実感がないのですが、実家における日常生活の教育の賜物だったのか?
まあ、日常生活において他人にストレスを与えずに済むかもしれない、巡り巡って自分の利益になるかもしれない事ってのは、色々あるかもしれません。
同じトイレの話で恐縮ですが、例えば『使用後は電気を消してください』などと注意書きのあるトイレ。
トイレのドアをノックすることにためらいを覚える人の割合は、結構高めのような気がします。
使ったあとに電気を消す。
電気が消えていれば、次に入った人は使用者がいないことをすぐに理解できますね。
反対に、『電気がついているから人がいるな』などと判断して、待ちぼうけをさせられることもなくなります。
小さなことですが、これも社会のストレスを減らす行動ではあるでしょう。
自分が何らかのストレスを感じた際に、こういう時、どうすればストレスを減らすことができただろうか……などと考えてみる。
そして、どこかの誰かのために自分が行動する……多分それは、ささやかながら大事なことかもしれません。




