118話:夏が終わる日。
少々ひねくれたお話です。
今更ですが、あなたを不快にさせる恐れがあります。
天候の影響などによって多少のズレはあるけれど、夏の甲子園の地方予選の日程は7月末ですべての代表校が出揃うようになっています。
つまり、ほぼ全ての高校球児の3年生の……長い長い、夏が終わる。
春の選抜もあるし、私個人のイメージだと最初に言い訳しておきますが……高校球児としての2年4ヶ月を季節にたとえるなら、夏としか言いようがない。
春のような穏やかさ、何らかの希望は、高校以前に感じるもので。
秋も、冬も、あの期間にはないというか、イメージにはそぐわない。
正確に言うと、夏の後の秋や、冬の気配もない。
その瞬間、いきなり夏が終わり……そして、そのあとに何も残らない。
夏しかないのだ。
そうとしか表現のしようがない。
それが、私の抱いているイメージだ。
中学から高校に進学する際、野球少年のほとんどは野球を諦める。(中学軟式野球出身で)
私の中学の同級生で、高校に上がって野球を続けたのは私も含めて3人だけ……強いところなら多くて半分、極端なところだと1人、ゼロもありうる。
高校にあがってみれば、周りのメンツはほとんどどこかの中学のエースだったり、4番だったり、キャプテンだったり……見事なまでに、中学時代の主力しか残らない。
そんな人間が揃っているのに、入部時に30人に届いた人数が、引退時には9人まで減っている。
野球の能力以外のところでそれを諦めなければいけなかった奴も当然いるのだが、基本的には自分に見切りをつけて辞めていく。
怪我をして辞めていくのも一つの例で……まあ、私は、格好悪くしがみついた脱落者だ。
実際、『治る怪我は怪我じゃない』のが通常の認識で、『怪我をして辞めていく』ってのは、つまり、そういうことです。
中学野球での最後の日、負けて泣くチームメイトを見ながら『ろくに練習もしてないのに、アホか』と醒めた目で見ていた私ですが、因果応報というかなんというか。
高校野球の最後の日、負けて泣く私を見つめていたのはテレビカメラでした。
うなだれる私を、下からすくい上げるようにして撮影していたテレビカメラに気づいた瞬間、ものすっごい暴力衝動にとらわれかけたんですけどね。(笑)
冗談抜きで、カメラマンの顎を全力で蹴り上げてやろうかと思いました。
あの日、あの時から、私の中にはマスコミへの拭いきれない不信感というか嫌悪感があります。
でもまあ……『見世物じゃねえぞ!』という、私の感情は的外れなもので。
あの時の私は、そして高校球児は、見世物なのです、本来は。
勝って喜ぶ高校球児に対し、負けて悲しむ高校球児を、視聴者の前に提供するのがマスコミのお仕事。
プロ野球を含め、高校野球もまた、先人が苦労して作り上げた利権システムの一部。
プロの選手が、『お客様に感謝』という言葉を使いますが……それと同じぐらい、そういうシステムを作り上げた先人に感謝しなければいけないし、そのシステムを維持する努力をしなければいけない。
高校球児もまた、そのシステムを維持するために努力をしなければいけない。
実際は、現代社会のあの年代がその認識を持つのは少々厳しいため、高校球児にそういった行為を強いることになってるわけですが。
『高校生らしさ』を演じなければいけない。
インタビューの受け答えは、視聴者が求めるものでなければいけない。
周囲の空気を読める人間は、それを演じる……子供が親の顔色をうかがって良い子を演じるように。
読めない人間は、それを強いられてもできない人間は、マスコミから排除されていく。
どんなに腹ただしく感じたとしても、大会前の事故や訃報は、美談なり悲劇のドラマの題材として取り上げられ、彼らの求める姿を演じさせられる。
良くも悪くも、高校球児はスポットライトを浴びる舞台の上を舞う役者のようだ。
舞台の上には、いくつもの太陽の光が降り注ぐ。
光の強さではなく、その『熱さ』が夏を感じさせるのかもしれない。




